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姉弟編第10話
母の手が緩んだ演奏終了直後。すぐに、歓声も聞かずにホールを出た。コートを脇に抱えて。母は気づいていないと思う。メールを打って、とぼとぼと駅に向かって歩いた。駅までは徒歩、十五分ぐらい。
いったい何やってるんだろうね、自分。陽はあんな発表会目前にしながら、きちんと授業受けて、質問までして、受験勉強がんばってるのに。それは確固たる目標があるせいだし、私にそれがないのは私がいけないんだ。
なんだろうねぇ、私、何のために勉強してるんだろう? なんのために、大学受験しようとしているんだろう? なんのために、高校言っているんだろう?
私は何のために、ここにいるのかなぁ……?
ゆっくり歩けば歩くほど駅は遠くて、時々思い出したように早く歩くけれど、すぐに疲れてしまって、また遅く歩いてしまう。繰り返しがむなしくて、涙が止まらなかった。どうして陽は見つけられたんだろう? どうして、楓はあんなに輝いているんだろう?
どうしてお母さんは、私で笑わないんだろうね。
楓の演奏で微笑んでも、私の成績表で笑うことはないだろう。それはなぜ? 私が嫌いだから? ――家の帰りが遅いのも、私が嫌いだから?
邪推だ、と思っても、一度はじまったらとまらないマイナス思考。クエスチョンマークばかり連発して、その答えを探すことが怖い。ネガティブまっしぐら、どうにかしてしまいたい。
自分が今どこを歩いているのかさえわからなくなったころ、目の前にはまた、同じホールがあった。あー、なにやってるんだろうね、夜も暗いんだからふらふら歩いていないで、早く帰ろうよ自分。自嘲。
火照った頬を冷やすように、雨がぽつぽつと降ってきた。ふと目の前で視線がとまった。目と鼻の先に、立っている少年。――ああ、あの子だ。西尾光。あっちが驚いたようにこちらを見つめるので、私はぬれ始めた制服に気づいた。あわてて傘を出そうにも、かばんの中に目当てのものは入っていなかった。
というか、うわさには聞いていますが、光くんよ、男ならばここで傘を出せないでいる女の子に傘を差し出すもんじゃないですか。もしくは声をかけるとかさぁ。陽が何度もぼやいているの聞いていたから、わかってるんだけどね。
―― 一歩を踏み出すのに、何度も石橋をたたくタイプ。ピアノ以外のことに対してはね。
そう、陽は言っていた。
「光君はいいねぇ、弟思いのお姉ちゃんがいつも、そばにいて」
自分自身の解決にはならないのに、自然と声が出た。光少年は驚いたように、目を見開いてこっちを見つめる。
「私にも弟がいるの。でも全然お姉ちゃんらしいことで来た記憶がなくて、自分のふがいなさばかり目に見えて、もうホント、いやんなっちゃうの。――しっかりしなきゃぁって、思うんだけどね」
笑ってみる。笑え、自分。鏡はどこかにないのか。
「理想のお姉ちゃんは遠いなぁ……」
少年は微動だにしない。距離は五歩ほど。
「今一生懸命、考えていることがあるんです」
少年が口を開いた。
「俺は姉ほど社交的でもなければ愛想が良くないし、人をほめるのも苦手なら、人を慰めるのももっと苦手です。人生の経験なんてすべてピアノにささげて、俺にはそれ以外なかった。今だって、それ以外ない。
でも、それすらもなかった時期があって、俺は、空虚だった。中身のあるやつにあこがれて、中身のない自分をひた隠しにしようとした。憧れが、自分の空虚を埋めてくれると思っていた。でも、そんなことはありえなかった。――結局今は、ピアノがその空虚を、埋めてくれている、わけ、なんです、けど……」
少年がいきなり顔を赤くし始めた。脇に抱えたままのコートが眼に入り、急いでブラウスの上にそれを着る。
「何度だってそういう時期は来るんです。珍しいことでも、自分だけのことでもない。何かに驀進していたって何度だって来る。俺はあなたに、だいぶ前、そんな時期を助けてもらって、恩返しをしたかった。今も昔も早々変わった人間じゃないのは百も千も承知の上で、なにか、手伝えることは、ありますか?」
ずいぶんと長い前置きだな。でも、少年は少年だ。私は自分の気持ちを変わりに吐露してもらったような気分になっていて、手伝いなんてもう、してもらったようなものだった。でもたった一つだけ、お願いをした。
「受験生なの、傘を貸してくれない?」
少年が自分のを差し出して、笑みを浮かべる。うん、十分社交的だよ。
傘を受け取ると、少年の傘越しにアンコールで忙しいはずの男が見える。彼にあうまでの気持ちは、今の私にはなくて、傘をさして、私は駅まで急いで走った。
晴れやかな気分を、傘が雨から守ってくれていた。
光は自分を呼ぶ声を聞いた。雨はいつの間にか本降りとなり、わずかの時間で彼の衣装をぬらしていた。友人が差し出した傘を受け取りながら、その後姿をじっと見つめていた。
「知り合いか?」
「ああ、昔の恩人……かな。須王、どうしてここに?」
「陽が……」
そういいかけて、目線を友人と同じ方向へと向けた。
いつか、あえるだろう。
友人にも聞こえない小さな呟きを、ただ一人に向けていった。
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