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姉弟編第9話
私の母は、演奏が始まってもやっぱり笑わない。前半の演奏に比べ、格段にレベルが上がった演奏を聴きながら、長くなった一曲のスパンが、眠りを誘う。がんばらなくちゃって思ったって、結局無理なんだよぉう。眠気は眠気!
ま、極論、陽と楓の曲が聴ければいいんだし? 一度ふんぞり返ってしまうと、私はまたまぶたを閉じた。何曲か流れたのは覚えているんだけれど、何曲だったのか、とてもあいまいで。プログラムを見る気はなかった。
西尾光、の名前が呼ばれた。起きる気はなかったけれど、何となく、舞台に目を凝らす。
聞いたことがある曲だと思った。――そう、ベートーベンの月光。でも微妙に違う。編曲西尾大樹、というアナウンスを聞いた気がするから、アレンジしたものだろう。原曲は第一楽章の暗い、単調な印象が強かったのだけれど、これはそのイメージがない。
音楽に詳しくないから上手くいえないけれど、明るい雰囲気がある。テンポは変わらないけれど、キーが高いのかな? それでも軽快な感じはあまり感じられず、荘厳さは原曲と変わらずにホールの中を満たしていて、厳粛な気持ちにさせる。これが、西尾大樹と、その息子である光の作り出す音楽なんだ。――すごい。
あっという間に時間は過ぎて、気づくとホールに沸き立つような拍手喝采。その中の一人に、私もいた。隣にいた母にちらと視線を移すと、微笑んでいるような、そうでないような……暗いから良く見えないんだけど、楽しんではいる、のかな。
そうなら、うれしい。
西尾陽、須王楓の名前が響いた。徐々にこわばっていくお母さんの顔に、私は目をそらさずにはいられなかった。あいたかったけれど……私に気づいて、欲しくない。わずかに腰を浮かせたが、隣のお母さんが手を押さえた。
逃げたいのは、どちらも同じ、か。
逃げられないなら、直視してしまおう。陽には目もくれず、舞台上の少年を見つめる。あちらから、こちらの姿は見えているのだろうか? 二階席だし、そんなに良くは見えていないと思う。そう思いたい。
二人がお辞儀をして、陽がピアノの前に座り、楓がヴァイオリンを構える。二人で呼吸を合わせ、楓は大きく弦を鳴らした。弓を早く、大きく振っていく。音の大きさに驚いた客がいそうだ。ヴァイオリンで、こんなに大きい音が出るなんてしらなかった。
陽のピアノは淡々とした調べで、須王の激しいヴァイオリンに効果を与える。ただ荒々しいのではなくて、ただ淡々としたわけではなくて。ふたつあるはずの旋律が、ひとつに聴こえる――相生。感嘆のため息を漏らすと、隣のお母さんも一緒だった。微笑を浮かべている。
こんなふうに、わらうひとだったっけ?
じっと母を見つめて、じっと楓を見つめる。彼はきっと、私たちに気づいていないだろう。私たちの顔を見ても、私たちが彼と同じ血を共有していることには、気づかないだろう。あまりにも長い間、離れていた。それはなぜ?
家庭の事情で、あえなかった? ――そんなんじゃない。そんなんじゃない。本当は、本当は。本当は、あって、何もできなかったことをせめられるのがいやだったから。
昔も今も、私はなんて非力。非力であいまいで、そのときだけで動いてる。『私』はどこにいるの? 楓はあんなにも輝いているのに。
私が一人、頬をぬらす。感動しているわけじゃない、自分勝手なそれを、けれどぬぐうことはできなかった。母はずっと、私の手を握っていた。
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