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姉弟編第5話
「ただいま、李花」
「おかえり、おかあさん」
「最近、体調は大丈夫? 一緒に検診行ってあげられてないけれど」
検診、というのは月に一回ある定期健診のこと。再発したあと新たに課せられた、私が病院に拘束される時間だ。一日中病院にいる日もある。
「平気だよ。風邪も引いていないし。受験生だし、体調には気をつけてるよ」
「そう、なら、いいわ」
当たり障りのない会話が続いていく。珍しく早い帰宅に私は緊張していたが、どうやら仕事が速く終わったらしい。
――時々思ってしまう。こんな病弱な娘より、健康な息子のほうが、母はよかったんじゃなかろうか。
母は確かに、離婚の直前、弟を拒絶し始めていた。それは弟の習っているヴァイオリンに関して、父親とレッスン料などの問題でもめたのもある。育児を理由に会社を退職していた母は、それまではバリバリのキャリアウーマンで、それは復活した今もそうなんだけれども、超がいくつついても足りないくらいのリアリスト。
音楽の道に進むのは、才能があればいいってもんじゃない。運、財力、コネ……これらがあればあるほど、将来への確信につながるが、存在したって、確証があるわけじゃない。成功する保証は、ない道のり。お父さんは自分の息子に、自分が歩めなかった道を託して、お母さんはそれを嫌がって、すれ違っていった。
私は入院してばかりで、病院の付き添いにはお母さんがいた。重なるものが、だんだんとお母さんを蝕んでいったんだと思う。
親権でもめることはなかった。お互いに子供を一人ずつ引き取って、母が養育費を請求した。父に非があったあるわけではなかったけれど、母が一人で私を育てるには、私という存在が重すぎたのだ。
母が楓と別れる前日、それは彼の誕生日だったのだけれど、ただ一言漏らした。
――おとうさんなら、楓のことを、私以上に大事にしてくれるからね
父は私には何も言わず、楓の誕生日の翌日、一家は分裂した。紙切れ一枚で。
「……? どうしたの? 顔に、何かついているかしら?」
やんわり、微笑んだ母に陽の笑みが重なる。作ったような、つかれきった笑み。愛想笑いばかりして、私はその笑みを見慣れてしまって、本物を忘れかけている。
「なにもついていないよ。お母さん、美人だナァ、と思って」
「なんにもでないわよ」
冗談で笑う。そんな笑みのほうが、私は好きだった。少しでも、愛想笑いから遠ざかれば、それで十分だった。
「そういえば、電話かけたかったんじゃないの? 廊下での大きな独り言、聞こえていたわよ」
「うん、でも、時間が遅いし、いいや。明日にする」
「じゃぁ、勉強もほどほどに、早く寝なさい。明日は早いんでしょう?」
うん、とうなずいて、部屋に逃げる。枕をぎゅっと抱きしめて、いやな感情を押し込める。
愛想笑いは、大嫌い。
決裂する父と母を、それでも懸命につなぎとめようと思っていた、ちっぽけな私の存在。何も変わらなかった、その無力さ。
楓はあってくれる? 楓は受け止めてくれる?
幼いころ、何度だって思った。彼が生まれた瞬間から思っていた。守れるのは私しか、いないって。
今、私が守れているものは何もないのだ。家族の笑顔も、親友の笑顔も、私は何も、守れていない。
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