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moon shine / sun shine
双子編第7話
 某音大附属高校で、一つの事件が起きていた。寡黙な優等生、西尾光がその中心とあらば、事件は噂となって人の口に上らざるを得ない。高三の附属大学への進学がかかった重要な時期、夏休みの登校日……様々な要素が絡んだ末に固まった事件は、ひどく険悪なものだった。
『車内で中年オヤジの腹を蹴り飛ばした』
 よくはないだろう噂の真実を知る人間は、近くにいた女子生徒一名と友人一名。学校関係者十数名。生徒間での噂の広がり具合は予想以上のもので、世間で横行する文明の利器の力は侮れないことを実感させるものとなった。
「――単にむしゃくしゃして、とか、殺意があるものではなかったんではないですね?」
「はい」
 清涼と答える光は、学校の有望株でもある。それに同じ有望株の友人、須王楓と、一番被害にあった女生徒の証言があれば、学校関係者は穏便にコトを運ぶことを是とする。
「つまり、女生徒が男性の痴漢行為に遭い、それを助けるために……と」
「はい」
 教職員一同は安堵のため息をつき、女生徒も胸をなでおろした。
「ならいい。生徒間では無用な噂が回っているようだが、根も葉もない噂だということがそれとなく広がれば、じきにやむだろう。……教室に戻りなさい」
「失礼しました」
 三人が頭を下げ、職員室を出て行く様子を見ると、職員室全体でため息がもれる。
 音楽の世界では、マナーも重視される。舞台マナーはもちろん、普段の生活態度も、目に余るものがあると、音楽で食べることは難しい。有望株の――例え理由があるとしても――暴力沙汰は、今まで目立った話がなかった分、マイナス評価として響くにがいない。
 彼を担当する教員からは、最近不調だ、という話もある。大学進学には、今までのコンクールの受賞歴などは関係なく、一回きりの演奏と調査書で決まる。幸運なことは、大学と校舎が隣接していないため、噂が大学に広まる可能性が低いこと。――文明の利器の奮闘も、顔も見たことがない生徒の活躍と進路には影響しないだろう。
 それにしても、頭がいたい。
 担任と校長を初め、有望株に期待を託していた人々は、肩を落とした。


「ごめんなさいっ! 大切な時期なのに……!!」
 職員室を出て階段の踊り場に経っていると、女生徒が深々と頭を下げた。タイの色から一級下と分かる女生徒は、痴漢の被害者だ。
「べつにいいよ、放っておけなかったしね。大丈夫だよ、ちゃんとした理由がある分、平気」
 さっきの尋問で力を使い果たしたらしい光のかわりに、須王が女性との肩に手をかけ、やんわりといった。促されて顔をあげた女生徒の目のあたりは、ほんのり赤い。
「本当に、何度謝っても……ごめ」
「謝らないでくれ」
 光が窓に向かって、ぽつりと呟いた。女生徒は顔を上げ、あっちの方向に視線を凝らす光の顔をじっと見つめた。肩に手をかけたままの須王が、光がポケットに入れたままの手を出し、爪の痕が赤く残る手を凝視した。
 ばつが悪そうに光が須王から目線をそらすと、女生徒はもう一度頭を下げた。
「教室に、戻ります。噂が違うんだって、クラスメイトに、言いますから!」
 階段を駆け上がる少女をわずかに追いながら、須王はまた、光の手首をつかんだ。
「苛立っているならちゃんと言え! ピアニストなら、手を傷つけるな!!」
 いつもの顔とは想像もつかないような剣幕で詰め寄られ、光はうつむくしかなかった。――ピアニストなら。正論だっただけに、指先から流れる血が、心に針をさす。
 血が乾いた。それでも須王は光の腕を引っ張り、保健室へとつれていく。朝母親が言っていたのは陽なのに、と、些細なことに自嘲した。保健医は手に消毒をすると、ガーゼをつけてテープで二か所固定するだけだった。
 光がバンソーコーなどによってかゆみを起こしやすいことを知っているため、かゆみを感じたらすぐに取れる処置だ。雑菌が入らないためにガーゼはなるべく取れないように意識していれば、テープはあまり必要ではない。
「これから外部受験生向けの健康診断があるから、静かにしておくこと」
 二人は奥のベッドに連行された。保健医の耳まで噂が届いているのか、学校側の配慮なのかはわからないが、二人は甘んじていた。
「陽が、謝るんだ。だれかと一緒に強くなれないことを、一番よく知っているのは陽だといったら……泣いて、謝った」
 眠る気はあるのか、光はベッドに横になっていた。須王は隣のベッドに腰をかけているだけで、寝る気配はない。
「陽は、夢を得て強くなるために、家族を捨てた。夢に近付くと、家族にまた近付いた。陽は、ズルイ」
 淡々と続く言葉は、偽りではなかった。むしろ本心。須王は耳を澄まして聞きながら、口許が結ばれたまま、はなれなかった。
「夢のために家族を捨てたのに、両方得ることは、できない、と、思う。ただでさえ、俺にないものをいっぱい陽は持っていて、器用で、いつも俺は陽と比べられて。……双子なのに、って前置詞がつく度に、陽が嫌いになっていった。本当は、嫌いじゃない。でも、憎い。全てを手に入れられるはず、ないのに」
 光が一通り言い終えて息をつくと、今度は須王がポツリぽつりとこぼし始めた。
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