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moon shine / sun shine
双子編第5話
 須王が昼の失敗に後悔したのは、お風呂から上がって一息ついたときだった。自分と陽が顔をあわせると、四十%の確率で昔話になるのはもう、統計学上分かっている現実だったはずなのに。
 後悔しても仕方がない、と、時計を見た。まだ七時。近所迷惑も考えて、家でヴァイオリンを弾ける時間は八時半までと限られていた。まだ新しい住宅街には小さい子供も多く、はす向いには幼稚園の男の子がいた。起きている時間と寝ている時間が半々、といった頃だ。
「……」
 電話に向かいながら、後ろ髪をひかれる思いでやはり、ヴァイオリンを手に取る自分がいた。なんといったって、やらねばならない、やりたい、やりたくてうずうずしている……と三拍子そろった曲が今、目の前にあるのだ。ついさっきファックスでとりあえず、ということで送られたものなので、あまりきれいとは言いがたい楽譜だが、読めないことはない。
 ……ちょっと、だけ。
 調弦を終らせると、まず最初の区切り、第八小節まで弾いてみる。でだしは荒々しく、あとあとでレガートの聞いた、落ち着いた曲調になる。そしてまた盛り上がり、終る。一緒に送られたピアノの楽譜と比べると、ヴァイオリンが主旋律、といった感じだ。ソロのところもある。気を引き締めていかなければ、と思って練習をしていると、時計の針はいつの間にか九時をさしていた。
 ヴァイオリンをケースにしまうと、興奮が冷めないうちにふとんにもぐりこみ、楽譜をじっと見つめた。しかし手がうずうずと感覚に訴え、落ち着かない。仕方なく布団から起き上がり、口許に笑みを浮かべながらヘッドホンを電子ピアノにつなぎ、ピアノのほうを弾いてみる。調弦の際に必要な音感を養うため、ということで、須王はピアノも習っていた。右手、左手と交互に繰り返しながら弾いていれば、なんとなくつかめる。
 ヴァイオリンが激しいのに対して、ピアノはどこか淡々とした旋律だ。楽しみだな、と心を弾ませ、興奮させ……
 陽にしようと思っていた電話のことなど、すっかり忘れていた。




「陽、ちょっと」
 少し時間がさかのぼる頃、西尾家では陽が父に呼ばれていた。普段、用事やそれらしい場がなければおおよそ親子らしい会話をしない二人なので、呼ばれる内容は限られていた。陽はソファから起き上がって、隣の和室に入っていった。
「上がったよー」
 光がちょうど風呂から上がって居間にはいると、陽が父のいる和室の戸を締めた。胸の苛立ちを感じながら、光は大きな音を立てて二階に上がっていった。

「お父さん、もう少し、光の……」
「陽、それが楽しいって知っているくせに、よくそんなこと言うねぇ?」
「……お父さん、絶対生まれてくる時代変えた方がいいよ」
 西尾家の主は、子供の生誕時に「もう出ちゃったの?」と、開口一番連絡先で言ったという。駆け出しも駆け出しも駆け出しだったその頃の父の仕事は、あまり定まっておらず、来た仕事を断ることは、例え妻の出産であってもできなかった。
 出ちゃったの、という言葉に二つの意味があると、陽は時々思う。一つは、無事でよかったね、という安心の言葉。もう一つは、まだうまなくてよかったのに、と、ため息付きで出そうな言葉だ。
「そうだね。中国の殷で楽士をやっていたら、政権が握れたと思うよ」
「ハハハ……なにその具体的な例。前世とか絶対そうだよお父さんの場合。実は覚えてるんじゃないの? で、くれるものなら早く頂戴」
 手のひらを上に向けてずいっとよる娘に、どうやらふてぶてしさを感じたらしく、父親は陽から視線をそらした。あげないよ、と存外ににおわせながらいった言葉は。
「そんな娘に……」
「育ったもんは育ったんです。ほら」
 さらにずいっと前に出す陽に、渋々、といった感じで出されたのは楽譜。
「ヴァイオリンが主旋律の曲で、ピアノはちょっと淡々とした感じが目立つんだよね。だから光にはさせなかったんだけど、陽は?」
 挑むような目で、こちらを見つめてくる。陽は光の知らないところで、この目と何度も対峙し、泣き、あきらめなかった。意地の張り合った親子だと母親に評されたが、それもなんら苦ではない。目標は、この父なのだ。
「お望みのままに」
 受け取って立ち上がると、居間のテーブルにあったのはカフェオレだった。氷が二個はいったそれは、コースターの上で水滴を作っていた。
「どうせ今日も遅くまでやるんでしょう? さっさと飲んで、さっさとやりなさい」
 笑みを浮かべる母に、陽は傍らに楽譜を置いて、コップに口をつけた。興味津々、といった表情で陽の楽譜を読み始めた母は、音符を追いながら、鼻歌まではじめた。
「陽、楽しみにしているわね」
「うん」
 陽が飲み終わって二階に上がると、入れ替わりで光が一階に下りるところだった。
「光、夜更かししないんだよ?」
「……どっちが」
 鼻歌をしながら階段を上がっていく陽に、光の焦燥はますます募った。自分の知らない曲だが、あのメロディーの運び方は、間違いなく父の曲。……なぜ、自分にはないのに。
 陽が憎かった。父の曲も、友人も、やさしい母も、大体のことをそつなくこなす器用さも、勉強が出来る頭の良さも、全てをかねそろえた姉。……ピアノもできる。
 自分には、ピアノしかない。双子なのに、なぜこんなにも別個のものになってしまったのだろう? なぜ、平等に才能を分けてくれなかったのか。陽の半分愛想が良ければ、須王以外に友人がいない、なんてことはなかった。須王だって記憶をさかのぼれば、陽の紹介がなければ。
 光はぞっとして、自分を抱きしめた。
 自分は明らかに劣っている。劣等。コンプレックス。……なぜ、なぜ、なぜ。
「光、お父さんが話があるって」
「行くよ」
 返事をしても、しばらく、階段の一段さえ、下りることが、身体を動かすことが、できなかった。小刻みに震える膝が、腕が、何もかもが自分の思い通りにならない腹立たしさ。
 神など、いるものか。
「光、早く」
 せかされるような母の催促に、やっとのことで一段ずつ下り始める。額に、大粒の汗がこぼれた。思えば今は、夏だった。寒くて忘れていた気がする。定期演奏会まで、大学の受験まで。時間は僅かしかないのだ。
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