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番外編 第8話
その足で帰宅して、志摩さんをたいそう困らせたんだろう。夕食時になるまで、志摩さんは一切声をかけてこなかった。遮光カーテンさえなければ、まだ高い太陽が作り出す日差しの恩恵を受ける部屋で、とにかく泣いてみた。
声を上げるのは枕で押さえられても、しゃくり上げるのは止められない。
御しがたい衝動で、それでいて、確たる言葉にできない、曖昧な、もやもやとした感情が渦巻いているのだけは実感する。二日連続で逃げ出して、あたしの行き場はどこにもなかった。
あの二人から逃げ出して、あたしは完全に居場所を失ってしまった。
そう思うと逆に、あの二人のところが「居場所」と思っていた自分がいることに、またあふれてくる。居場所なんて、もうできないと思っていたのに。
道徳が弟になった日から、道徳があたしの居場所だった。彼のいるところが、日々を過ごす場所だった。そこにしか、いたくなかった。なくなってしまうなんて考えられなくて、だから、彼の死ぬ瞬間に立ち会えなかった。
思えば、彼の死が怖かったんじゃなかった。あたしの居場所がなくなることが怖かった。なんて、身勝手なんだろう。
李花も、あの人も。あたしにはあの二人になにかしてあげられるわけでもないのに、いてくれた。李花はあたしが楽しいとそれがうれしいとまで言ってくれた。なのにあたしは、逃げた。――否、あの二人のそばにいる自分は、ひどく、あいまいで、不完全で、未熟なものに感じられた。
あたしはあの二人のそばにいることが、ふさわしくない。
あの二人には、きっと輝かしい未来がある。学校を楽しめるのは一種の才能じゃないか。それを発揮して、これからもきっと、楽しい日々を送る。あの二人は。
あたしはダメだ。無理だ。楽しい日々なんて無理だ。こんな身勝手な人間、楽しい日々を望なんて、なんて傲慢なんだろう。そんなの、許されるわけがない。
だれがのぞむって、いうんだろう。
あたしにはもう、『終わり』しか望みがない。
ドアの前に人の立つ気配がした。しばらくためらってからドアをノックしたことが、いつもより響く音でわかる。いつもと違う、響き。
「お夕飯の支度が、できましたよ?」
「あ、うん……」
志摩さんに、心配をかけてはいけない。それだけの気持ちが、あたしを部屋から出した。こらえなくても平気なほど、もう涙は出なかった。念のために、深呼吸をひとつ。ふたつ。
ドアを開けると、志摩さんと視線がぶつかる。
あたしの顔を見て、志摩さんはほっと胸をなで下ろした。ドアを開けた直後は緊張していた表情が、穏やかな笑みを浮かべ始めた。と思ったら、今度は志摩さんがほろほろと泣き出してしまう。
なんでだ。
すっかり動揺してしまって、焦ってしまって、つられて泣きそうな感覚のなかで、なんとか志摩さんをなだめようとするのだけれどもうまくいかない。赤ちゃんに泣かれて、泣きたいのはこっちだと言うドラマの中の俳優の気持ちがわかった。これは困る。
わたわた、という効果音が似合いそうなほど手を上下に振って焦りを表しても、志摩さんはそれを意に介した様子なく、涙をほろほろと流す。号泣って訳じゃないんだよなと、すこし時間がたって落ち着き始めた脳みそが考えるけれど、じゃぁなんでだっていう問いに答えはない。
志摩さんはしばらくすると深呼吸を始めた。あたしと同じだ。一つ、二つ、三つと、落ち着くまで何度も繰り返す。同じなのは当たり前で、あたしはこれを志摩さんから教わったのだ。
「ごめんなさい、取り乱してしまって」
「びっくりした!」
「本当に。けれども、よかった」
志摩さんが、あたしの手をぎゅっと包み込んだ。
「生きていらして、本当によかった」
「そんな、志摩さん、……大げさ……だ、」
言いながら、言葉が詰まった。志摩さんの肩口に額を乗せて、エプロンに涙を吸ってもらう。
あんなに泣いたけれど。あんなに道徳を思い出したけれど。あんなに自分を否定したけれど。『終わり』を望んでいたけれど。
あたしはまだ、息づいている。
流れるような涙だった。叫び声もうめき声も何もない。ただ、なにかが流されていくような、そのためのような、とうとうと流れる涙。わき上がる気持ちがなんなのか形容できなくて、言葉にできなくて、むずむずする。
悲しさなんてなかった。ほんの少しの寂しさ。
――もう、思い出になったのか。
あの日から二年が過ぎた。日にちにすれば八百日ぐらい過ぎた。長かった。人をたくさん傷つけた。ついさっきだって、あんな風に逃げて、きっと李花を傷つけた。
大切な人を失った悲しみを、あたしはいろんな形で他人に押しつけていたのだろう。李花しかり、あの人しかり。――お父さんも、お義母さんも。あたしをみるなりあんな風に言った、志摩さんはきっと毎日が不安だった。こんな風にいろんなひとを、たくさん、たくさん。
気づかなければ。
いつ、誰を、どこで、どんな風に傷つけたのか。どうすれば、その傷をあたしが癒せるのか。あたしがつけた傷なんだから、あたしが責任を持たなくちゃ。すべてがすべて、責任を全うできるかなんてわからない。けれど、あたしにはそうしなくちゃいけない理由がある。
まず、何からはじめたらいいんだろう。
まず、誰からはじめたらいいんだろう。
泣き止んだ志摩さんにそんな話をしたら、一番手身近にできる人から、こつこつとやっていけばいいんですよとお答え。それは志摩さんだよって言ったら、真理さんの泣き顔を久しぶりにみられただけで、もう安心しましただって。言われてみればそう、ずっと泣いていなかった。
夕食を済ませるとすぐに家から出て、同じ敷地内の母屋に向かう。
「お父さんと、お義母さんは、いる?」
出てきたお手伝いさんに尋ねると、奥に通された。
まずは、ここから。
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