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明るくなる方法
第5話
 須王……それは私が、十二月のあの日に捨てた名前の半分。
 失った日が足音を立てて近づいてくる。その日まで、もう二ヶ月は切っている。
 あの、寒さばかりが残る日まで。



「ここまで、二学期期末の範囲だ。さて、今から新しい単元に入る」
「えーっ、先生、進まないでー」
「一年間でこの教科書一冊終わらせたい教師心を理解してくれ」
 そういって、さくさくと進めていってしまう。全体から見ての進み具合もそんなに悪くないし、テスト一週間前の今、残りの二十分で必死にやることはないと思うんだけどなぁ。
 ま、私はきちんと予習も復習もしていますから? 余裕ですけどね。あー、自分の完璧な優等生ぶりが怖いわ、正直。相変わらず眠ったままの後ろと雲泥の差ね。
「来週は一時間自習の予定だが、仕方がない。リクエストにお答えして、自習にしよう。――しかし諸君、そのためにはこの問題を、君たちの中の誰かが答えなければならない。一分以内に挙手をしなければ、授業再開」
 そういって先生が黒板に書き出したのは、新しい単元の問題。の、ちょっと応用問題。平面図形で、距離を求めるもの。比とちょっとした公式が必要。復習プラス予習の標準問題というところか。
 でもさー、それ卑怯だろ。最低。最悪。右腕の腕時計を喜色満面にしてみている。普通にこのまま、授業続けちゃって良いから。
「先生ー、誰も解けませんよぉぅー」
 おおう、お弁当の仲間たちか。後先考えずに直球で話すおバカな発言は、大概が本気というから恐ろしい。あんたらの義務教育、ムダだよ無駄。
「お前たちの頭じゃ無理かー」
 ムカ。この数学教師は毎度毎度、発言するごとにその発言がウザったらしいのよ。さっきの諸君にしたって、私たちをバカにしているとしか思えない。だから嫌いなんだよ数学の名取!!
「まぁ、青木が手を挙げないようじゃ、このクラスじゃ無理だろうな。な、青木?」
 その笑みの意味するところは、『いくらお前でもここまでやっていないだろう?』……やってますよ、天下の青木李花さまをなめないで下さる? このアホ面。
「やめとけ、」
 眠っていたはずの男が後ろから、小さな声で助言をする。いんや、これは宣戦布告、これを受けずに女が上がりますか!
「ぜひ」
 ノートを片手に立ち上がり、やっておいた標準問題と少し照り合わせながら、補助線を引いて、線分の長さを求める。]=3.4。解の下に線を横に引いて、二重線をさらに縦につける。これで完成。どうだっ。
 振り返ってみると、クラスは静まっている。私の後ろの住人にいたっては、手で顔を覆っている。教師の顔を見れば、したり顔だ。
「そこまで予習をしているなんて、考えもしていなかったよ。さすが、青木だ。僕の授業なんか、必要ないだろう?」
 ぶっちゃけ、いらない。問題の解説してればいいよ。何が言いたいんだ。ほんと、苦手だこの教師。
「先生かわいそうー」
 ええい、大の男をかばうなこのバカ女生徒!
「申し訳ありません」
 出来が良すぎて。
 頭をぺこり。軽く十五度止まりなのは、これ以上下げるのはあたしのポリシーに反するからだ。こんな生徒をネチネチ言う教師は教師じゃない。今すぐ教壇から消えてほしいくらいだ。
 こんなところで謝る生徒も大概イヤミに決まってる。名取に猫かぶる必要なんぞないわ。
「予習は毎回二十ページほど前までやっております。実際、そんなに進むことはありえませんし、日にやるページ数は五ページほどですが。数学、好きですから」
 売られたけんかは買ってやろうじゃないの。実際、予習二十ページ前までなんてしてません。大ホラ。でもこの問題は、似た標準問題から数値と補助線の位置を変えただけ。やってみると全然、応用じゃない。
「青木、座っていいよ。自習に入ろう」
「解説は?」
「君の回答が何よりの解説だ。来週は、この問題が終わったところからはじめる。問五を笹本、やって、黒板に書いておけ。問五の解説だけで、残りは自習だ。各自、きちんと進めておくように。青木が出来て、みんな出来ないわけがないよな?」
 クラスの怒りの視線が集まったのを、肌で感じた。なにこの教師!
「先生、わかんないー」
「はっはっは。青木に聞くといい。非常に丁寧な解答を書いてくれたしね。はい、自習はいってー」
 なにも説明していないのにいきなり問五? あー、ごめんなさい笹本君。でも彼は頭が悪いほうじゃない。きっと解けるはず。問題はそうじゃない方々だ。あー、もうもう、何なのこの針のむしろは! 怒りの矛先が違ってるんじゃないの? 名取に対して怒れ!! 内申が怖いなら最初からいい点とっておけ。

 ――私は、悪くない。

 クラスの中でひそひそと噂話が聞こえる。みんな分かってるだろう。予習復習をしていない子は独学で、平面図形の基礎をやらなければならなくなった。
 みんないやそうな目で私を見つめる。赤くなっているのか、青くなっているのか分からない私の顔を見て、くすくすと笑う一角がある。毎日、同じ時間に見る顔だ。毎日、大体朝すりよってきて、ノートをせびる顔だ。ロッカーの、鍵の番号も知っている顔だ。
 先日の傘。今日のバカみたいな質問のオンパレード。
 多くの符合が一致して、乾いた下唇をわずかにかんだ。
 一気に、居心地が悪くなった。
 優等生には、友人がいなくてはならない。私個人としては、お弁当を一人で黙々と食べるのは平気だけれど、それではそれを見つけた先生が心配する。対人関係が上手くいっていない、上手くできない子だと思われたら、一気に内申に響く。
 もちろん、図書館は飲食禁止。

 じゃ、どこで食べればいい?

 後ろで寝息を立てている男の知っている場所しかない、と、思ってしまった。後ろめたさも何もなく、すがるような、思いで。気づいて顔を熱くしても、もう遅かった。
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