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「ふつー、ふつーさぁ、つまむ? 起こすために、オトメの腹をつまむ? ねぇ、ちょっと、聞いてるの?」
「……おまえ、性格変わってないか?」
夕食の時間も近づいた夕暮れ時。いまだにタイミングを見計らってはねちねちと、朝のことを言い続けるリリアに、アルタルフは辟易していた。話題を少しでもそらそうと、適当につぶやいてみた。
「やっぱり、そう感じる?」
「セイほどでもないけどな」
「わかりやすすぎだよね、セイは」
ナンチョウを出航して以来、リリアは徐々に変化しているとアルタルフは思っていたし、その点、セイとの意見の違いはなかった。ただ、アルタルフは変化を受け流していたのに対し、セイはつきあっていた年月もあってか、ショックを隠せない節がある。直視するのもためらうのか、一緒のタイミングで食事を取ることすらしない。
リリアがそのあからさまな態度をどう感じているのか、アルタルフの知るところではないけれども。
「セイの前では、以前のリリアに戻ったっていいんじゃないのか?」
「だめなの、それは。私は変わらなくちゃ。サイガの為に生きていた、私じゃない」
「なんで、急に?」
「私は知ったの。私は、リリア・ノクタームとして、生きていて。サイガのためにあの娼館で生きていた、それまでの私とは決別しなくちゃいけないって」
「決別とはまた、思い切ったことを」
「だって……」
リリアは、アルタルフを見つめる。唇をきゅっとかんで、手をおそるおそる、アルタルフにのばした。アルタルフが表情に驚きを浮かべると、顔を伏せてみなかったふりをする。そうしてそのまま、彼のそれをつかんだ。
「アルタルフは、悲しいと思った?」
「なにを?」
おそらく初めて自分からつかんだ手を、リリアはどうしたらいいのかわからず、ただ、力の限り握りしめた。
「変わって、以前の私が少し消えて、それを、悲しいと思った?」
「……」
時間帯も悪かったのかも知れない。
夕暮れ時。日が沈んでいく。雲が流れていく。その光景は、ナンチョウを出航した日にそっくりだった。海岸線に見える島はどれも無人島で、目的地は遠い。けれどもどれかが、ナンチョウのように感じてしまう。
あの日、リリアは、泣いた。
アルタルフにとって、死ぬ覚悟は簡単だったのに。リリアにとって、彼を殺す覚悟は簡単ではないらしい。彼女の歌でしか死ねない我が身を、リリアは殺しがたいのだという。悲しいのだと言う。
くだらないと、一蹴してしまえばよかったのだろうか。
忘れれば辛くないといった彼を、リリアは忘れる方が辛いと言った。思えば彼女は、リリア・ノクタームでいた時間のほとんどを失っている。覚えていたのは、名前と、歌だけ。
セイに話しかけられるまで二人は甲板で立ち尽くして、無言のままだった。翌朝には、「今のリリア」が、何事もなかったかのように話しかけてきたから。
――ああ、そうか。
リリアの性格の転じ方は、性格が変わったわけではない。これは、
「空元気は、いっそう辛くなるだけだぞ、リリア」
握られていない右手を挙げ、リリアの頭に載せる。ぽんぽんと二回なでて、手を引っ込める。
衝動的とはいえ、握られたのは初めてで、感情的に頭をなでたのも初めてだった。
肝心のリリアはうつむいたまま顔を横に振った。振り払ってその場を去ることもできない。
「……リリア?」
「セイ」
とっさに手を離したリリアに、アルタルフは背を向けた。セイが一歩近づく事にアルタルフはリリアから一歩離れ、セイがリリアの頬に手を伸ばしたときには、甲板からいなくなっていた。
「泣いてるじゃないか!」
「え、」
セイが珍しく声を荒立て、辺りを見回した。けれども船員の一部は早めの夕食をとっているし、気を遣ってあからさまに視線をそらしている。そうして顔をあちらこちらに動かしても、目的の人物は見つからない。
「あ、ほんとだ」
自分の手で目尻のあたりに触れ、リリアは初めて自覚した。目に映る、夕暮れがあとすこしで夜の訪れを知らせる。あんなにも朱かった空は、薄紫色に変わりつつある。
「あいつのせいだな?」
セイが言ってきたのを、思いっきり首を振って否定する。――そうじゃないと、全身で訴えることしかできない。のどが、焼け付くようにいたいのだ。
「ち、……が」
痛みをこらえて言葉を発する。けれども、思うようにいかない。
「リリア?」
今度は、自覚する。あからさまなほどにあふれて、止まらない。気づけば顔を手で覆い、声を出さないまま、流した。
セイが自分が来ていた上着を肩からかけてくれた。それに気づいたのは、もう月がさんさんと海面を照らしていた頃だった。
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