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うた秘め
第2章 旅人のこどく 10
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 ナグルは一通り歌い終わると、ふっと笑みをこぼした。さきほど触れた銀の腕輪の感触がよみがえり、背筋が震える。自分が話しているときの、少女の熱心な瞳の、その奥の寂しさを思い出すだけでぞくぞくする。
 都合よく記憶をなくしたリリアが、リリアでなければ死ぬことのできないだろうアルタルフと、旅をするなんて想像もしていなかった。力を持つ少女は厳重に亡びの民が守り、永遠に半分の花をその腕に刻み続けるのだろうと思っていた。
 腕につけられた花の意味すら知らない。――何も知らない娘。だからこそ、価値があるのか、誰にとっても。
「クールクーリ、あなたはいい子供を持ったみたいね」
 何年かぶりに口にする名前、クールクーリ。過去、活きの民の長だった男。
 亡びの民や活きの民は自分の父親、もしくは母親の名前をそのまま名づけられる。腕輪は、片親の名を知るのに重要な道具。すべてはその特殊な婚姻ゆえに。けれども、リリアの持っていた腕輪の母親の名前は、リリアではなかった。
 文字が読めないというのは嘘。領主なら皆、あの古代文字は習得する。でなければ代々伝わる原詩が読めないから。
 腕輪に刻まれた歌詞を思い出しながら、一語一語確実に声を発する。歌う必要はない。言葉を並べるだけでいいのだ。この通信手段は誰が見つけたのか――心を抉り取られる通信手段として悪名高い。歌の核を、本人が預かり知らぬところで他人が歌うのだから。
 反応はすぐに返ってきた。
「セイを呼んで? お話したいわ」
 それだけ伝えて切る。ナグルの笑みは、絶えない。

 ほどなくしてあらわれたセイに、ナグルは用件だけを伝えた。現状一番情報が足りない、純粋な青年への配慮だ。父親とは顔形が似ていても、明らかに違う好印象を与える表情や物腰は、ナグルのお気に入りだ。
 緊張した面持ちのセイに、いたずら心半分で、両手を頬に滑らせる。赤くならない代わりに青ざめたのが面白い。からかっていてもしょうがないが。
「まわりをきちんとみなさい。未来はすべからく、仮面をつけている」
 手を引っ込めて、下がるように言うと、何も言わずに立ち去る。――寡黙と言うかなんと言うか。
 こちらの手の内は見せてたまるかと言う意地だけは感じ取れて、ナグルは久しぶりに本音で笑みをこぼした。



「あれ? ククーは?」
 サイガ領主保有の超巨大船に乗って辺りを見回すと、いつもならばうるさく指示を出しているはずのククーが見当たらない。セイの片腕にも等しい彼がいないのは珍しいことではないだろうか。
 昨日はいたはずだが。
 慌しく出港準備している船員に聞いても首を横に振るばかりだ。らちがあかないと、甲板で指示を出しているセイを捕まえる。
「ククー? ああ、なんだか二〜三日ナンチョウにいて、そのあとサイガに戻るそうだ」
「え!? セイ、平気!?」
「リリア、ククー一人いなくなったぐらいでどうにかなるように見える……?」
 リリアの驚き方にそれなりに傷つくところがあったのか、セイは目に見えて肩を落とした。あたりをきょろきょろと見回すと、船首の近くでアルタルフが海を眺めている。セイと船員が話し込んできたので、リリアはアルタルフのところへと歩いた。
 アルタルフは気配でわかったのか、あと一歩のところで、振り向きもせずに言う。
「セイのそばにいれば?」
「ん、邪魔しちゃ悪いし」
 さいごの一歩を踏んで、アルタルフの隣に立つ。西に沈む夕日が、海を染めている。そういえば昨日は泣き疲れて眠ったために、夕日を見ていなかったなと思い出す。
 ナンチョウで見る、初めての夕日だ。そしておそらく、最後にもなる。きれいだね、とそれらしい言葉を出しても、アルタルフはため息交じりの生返事だ。
 互いに、つかず離れずの距離を保つ。
 日が水平線上に半分を沈めている。空の雲の動きのほうが早い。潮風がリリアの髪を揺らし、アルタルフの視界を邪魔しても、気にする様子はない。
 今日、一夜を過ごせば、明日には出航。
「……忘れていいんだ」
 アルタルフのつぶやきに、リリアは振り向いた。彼はリリアを見ようとはせず、海を眺めている様子だった。「会話」をする気はないらしい。あくまで独り言、といった風情で、ぽつりぽつりとつぶやいていく。
 リリアは肩を落とし、紫色になった東の空を見た。そうして、聞き逃さないように目を閉じ、耳を澄ませた。頭も心も、からっぽにして。
「俺は、死ななければならない人間だ。この命がサイガの民を犠牲にしているとわかったときから、ずっとそう思ってる」
 犠牲の上に成り立つ、自分の不老不死。それに罪悪感を覚える程度に、アルタルフが優しいことは、リリアはわかっていた。領主の血筋であることも罪の意識を強くするのかもしれない。
 本来は守らなければならない人々を、自分が犠牲にしている矛盾に。
「俺を殺しても、誰も怒らない。誰も悲しまない。そんな風に生きてきたつもりだ。だから、――その時がきたら、」
「私は悲しい」
 アルタルフの言葉を、リリアがさえぎる。
「アルタルフは今、私と一緒の光景を見ている。それだけ隣にいた人の死を、誰が悲しまないっていうの?」
 夕日なんて、サイガでは何度も見た。けれどもナンチョウで見たのは今が初めてだ。昨日は泣き疲れて眠ってしまって、夕日の時もずっと寝ていたから。明日の朝発ってしまうのだから、ナンチョウの夕焼けは今日がもしかしたら、最初で最後。
「アルタルフがいなれば、サイガの外に出なかった。ここにいることもなかった。私を外に出してくれた、アルタルフが死んでしまうことは、私にとって、……とても悲しい」
「忘れれば、悲しくもないだろう」
「忘れろって、何で?」
 リリアには、アルタルフの言葉を理解できない。どうして、忘れろと願うのか。生まれてから十年分の記憶を失ったリリアにとって、どれも一瞬一秒たりとも失うことのできない、思い出なのに。
「私には、忘れるほうが辛い」
 忘れれば幸せなんて、そんなこと誰が決めたんだろうか。忘れたほうが、リリアには身のちぎれるような辛さだ。忘れることによって失った人々の顔と名前。それを感じるほうが、よほど。
 失ってしまった記憶は取り戻せないのに。
「……忘れて欲しいなんて悲しいこと、言わないで」
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