サイトトップ『うた秘め』目次

うた秘め
第2章 旅人のこどく 8
←前次→
 ナグルが突然に、空気を緊張させた。その様子に、リリアは身を乗り出すようにしながら耳を傾け、一言一句逃すまいと肩を張った。その変化が面白かったのか、ナグルは突然笑い声を上げる。
「いやー、そんなに緊張されると困りますネェ」
「……はじめて聞くんです。きっと、私の素性らしい素性を、はじめて」
 女将はいつも首を横に振った。自分がどこから来たのか、どんな生活をしていたのか、いつどこで何をしていたのか、全くわからない。娼館で過ごしてきた生活のおかげで、少しは和らいだ自分への疑心。
 けど、時々首をもたげる。――自分は、「何」なんだろう?
 うたを歌えるとか、亡びの歌をうたうとか、名前はリリアだ、とか、そうした断片的なものでない、もっと根本的な部分に潜む私は、なんだろうか?
 成長するたびに薄れていく疑心が、成長するたびに欲求に変わる。――知りたい。一番純粋な、欲望だ。
「何もかも知らなかった。歌で人を殺せることだって知らなかった……んです。だから、」
 ナグルをじっと見つめ、その目が緩むと同時に、リリアは肩の力を抜いた。
「亡びの民。姓はノクターム。ですからあなたの名前も、正しくはおそらく、リリア・ノクタームになるのでしょうね」
「そう、いえば」
 姓など聞いたことはなかった。知って、かみ締めるようにつぶやいてみる。誰か、同じ姓の人間がどこかにいるというのを知っただけで、なんだかうれしくなる。
「亡びの民は、私達のように定住はしません。シトウをめぐる、流浪の生活をしています。といっても、何年か前に争いがおき、散り散りになったと聞いていますが」
「争い……?」
「ええ。あなたはいつからサイガに?」
「九年前に、引き取られました」
「ではそのころでしょうか。なにぶん、こちらとしても情報が不足していまして」
 一つの場所に定住しないのなら、そうなるのだろうか。シトウ付近の海域には、シトウ以外にも島が点在する。ほとんどが無人島で、人は住んでいない。そこにいる間に襲われたのだとしたら、誰も知ることはできないだろう。
「私、記憶がなくて。引き取られる前にどんな生活をしていたのか、覚えていないんです。リリアと言う、名前しか」
 名前を覚えていただけでも十分ですよと、ナグルは笑みを浮かべた。つられるように頬を緩めると、ナグルは腕輪に話を移した。
「この腕輪はノクタームの成人がつけるものです。彼らは歌を制御できるようになると、成人と認められます。そのときに、親から与えられるものがこの腕輪になります。一生つけ続けるものですから、それをあなたがつけていると言うことは……わかりますよね?」
 表情を一切崩さずに行ったさっきの言葉を反芻する。その人物は死んでいると。拾われたとき歳もわからず、十には満たないだろうと言う推測で九歳と女将から言われたが、そんな自分が一人前だったとも思えない。リリアのものである可能性は低い。
「歌には、核という、重大なフレーズがあります。この腕輪には、そのフレーズが、両親のものと本人のものが書かれる。つまりは、持ち主の命が書かれているんです」
「い、命ですか」
「歌の核といえば、本性を言い表すとされています。古には、人を呪い殺すのに使われたこともあるそうですよ」
 世間話をするように殺すと言うナグルにリリアは不安を募らせたが、黙って聞くしかない。
「今は残っていませんけどね……今でも核だけを歌うと、心を通わすことができるとされています。私は試したことないんですけどね。言い方を変えれば、いつどんなところで歌われようと、心を奪うフレーズなのですよ、ここに書かれている、歌の核は」
 あ、もちろん、恋とかそういったものとは違う意味ですよ? 心を奪われるって言いますけどね、あれも。――そうつけたすナグルだが、気迫が明らかに違う。リリアは知れず、手が汗ばんでいることに気づいた。
「なぜ、こんなものを?」
 そんなに危なっかしいものを、腕輪とはいえ、書き残していてイイのだろうか。
「いい着眼点ですねぇ。実は私も知らないんですよ」
「……」
「なにせ亡びの民は、謎が多いですからねェ。活きの民――彼らはムータクノといいますけれど――もそうですけれど、彼らは歌が歌ですし」
 今日思い知ったことを反芻する。亡びの民は人の命を奪うのだ。活きの民は、人を不死にすらさせる――アルタルフのように。
「ただ、この腕輪があなたの手元にあると言うのは、持ち主の意思なのでしょう。どんな意図があったかはわかりませんが」
「この文字、なんて読むんですか?」
 リリアには一向に読めない。普通に使われる文字ですら読めないのだから。
「それが、これ、亡びと活きの間で使われる、タクタ文字といわれるもので、私は読めないんですよ」
「えっ」
「活きや亡びの方なら読めると思いますが……アルタルフは出自の割りに読めないと息巻いていましたから、多分だめですね」
「アルタルフの出自をご存知なんですか?」
「混血児は、シトウ間で取引があるんですよ。どこの島が引き取るのか、シトウの四人の領主が顔をつき合わせて決めるんです。彼は母親がサイガ領主の血統だった。あ、これ、内緒ですよ」
 自分が読めないのは記憶のせいだろう。リリアは嘆息しつつも、自分が今まで身につけていたものの正体をはじめて知れて、それだけで幸せに浸れた。
「なにはともあれ、アルタルフの目的が目的である以上、亡びの民を探すのでしょう?」
「……」
「不安が?」
「個人的な、話ですけれど。いいですか?」
「どうぞ」
「……旅に出るきっかけは、ただ、サイガを出たかったからなんです。アルタルフには、旅の目的を見つけろって言われて……どんな人間になりたいのか、見つけようと思ったんです」
「ふむふむ」
「でも、アルタルフの目的を知って……私は、彼の目的には必要みたいです。そして私には……」
「彼が殺せないと?」
 リリアは首肯した。
「あなたが彼を殺しても、誰も糾弾しないでしょう。特にサイガは諸手を上げて喜びますし、彼がいることで迷惑した人間は数百数千といる。サイガに住む民は皆、等しく彼の犠牲ですから。あなたはそんな彼らを救うのですよ?」
「でも」
「なぜ、殺したくないのです? ――あなたがそこを見つけなければ。私に殺さなくてもいい理由を探しても無駄ですよ」
 リリアは、突き放された。
←前次→

サイトトップ『うた秘め』目次>第2章 旅人のこどく 8