サイトトップ>『うた秘め』目次>
第1章 浮浪のたびびと 13
←前|
次→
出港しかけていた船に飛び乗り、辺りを見回しても、アルタルフの姿が見つからなかった。これより前にも船があったかと意気消沈していると、船夫に声をかけられた。ナンチョウ行き。少々のお金を渡し、甲板に座り込む。
少々の積荷はあるが、それよりも人運びが主らしいその船は、今日の風なら半日であちらに着くそうだ。
船夫も帆を確認したりしているものの、たいした仕事がないようだ。大半のにはつみ終わっているようで、あとは夜明けを待つばかり。船夫や乗客の中には、甲板で賭博もどきをはじめたものもいた。身なりのいい男が楽しそうに話している。
リリアには賭博に参加する気も、話し合いに参加する気持ちにもなれない。アルタルフにおいていかれたことが、すこしだけ心を沈ませた。もう二度と会えない可能性を思うと、感謝の言葉の一つぐらい、と思わないでもない。
むしろ、その可能性のほうが高いぐらいだ。
数少ない女性とともに肩を寄せ合い、時々二三言葉を交わすぐらいで、海風に吹かれながら、海上の揺れと戦っていた。
出港の声があたりに響く。アルタルフがリリアのあとに乗ってくることも、リリアの前に乗った形跡もない。……もう二度と、彼とは。
品のない笑い声。女たちのささやく声。波の音。帆のきしむ音。掛け声。
「リリア」
――名前を呼ぶ声。
「誰?」
見たことのない、顔だった。顔の下半分のほとんどがひげで覆われ、今まで見たことのない不清潔な顔に、リリアは後退りした。口ひげがにぃっと横に動くと、面白おかしそうに大声で笑い始めた。
どうしてわらわれているのか、最初はわからなかったが、どれだけたっても笑いが収まらない。不安と期待とない交ぜになっていてよくわからなかった心が、一つの感情だけをふつふつとわきあがらせる。
周りの女たちはおびえてリリアの傍から離れてしまって、リリアは我慢できずに啖呵をきった。
「なにがおかしいの!」
いきなり立ち上がったせいで船の振動と相まって体がよろける。男がリリアの二の腕を引っ張って止め、海に落ちる不運は免れた。
――感謝するべきなのか。
腕をつかまれたまま、姿勢を直す。リリアがじっと見つめてどうしようか悩んでいると、男はふいに歌い始めた。リリアにしか聞こえないような小さな声で。今まで聞いたことがない、けれどもどちらかといえば領主の歌に似ている――すこしだけ楽しくなる歌だ。
しばらくすると、顔が変形を始る。徐々に見慣れた顔になった。
「アルタルフ……?」
思い浮かぶ名をちいさく。耳ざとく聞いて、笑みを浮かべる。
「正解だ、リリア」
今まで彼を覆っていたフードがなかった。改めてその顔を見つめると、骨格のがっちりした、精悍さがあふれている。海風にあおられた髪は、いまの、明け方の海の色のように、青と黒の中間色。
日に焼けた肌色。すべてを語っていた瞳は、髪と同じ。
「旅の目的は、できたのか?」
青墨色の瞳がたずねる。リリアは笑みを浮かべて、胸を張った。
海風を吸い込み、胸を膨らませる。雲ひとつない青空。白い帆。
夜のように広がっていた不安が、陽の光に消えていく。アルタルフにあったら絶対に言おうと思った言葉よりも先に、質問に答えた。
「ハマお姐さんから、宿題が出されたの。自由になった私は、どんな人になりたいのかって」
今まで、セイのために生きることがすべてだった。そのために娼館でいき、暮らしていた。不満を抱くこともなく。期待を抱くこともなく。ただ、セイのために生かされていた。――サイガのために。
「自由になった私は、自分がどんな人間になりたいのかもわからないから。この宿題のために、外に出ようと思った。」
「サイガでも、できるものではないのか?」
いやな質問をするなぁとぼやいても、それが彼らしいとアルタルフを見て思う。ありがとうなんていう価値ないと、少しだけ思う。少しだけ。
青空のように澄んだ人ではない。だからいいのだ。今まで私の周りに居た人は、どことなく澄んでいた。それだけではだめなのだ。
「サイガでは、狭いもの。もっといろんな島を見て、その島に住む人々を見たい」
「両親は?」
「少し、探してみたい気もするけど……手がかりがこれだけじゃぁね」
腕輪を布越しにさする。立派なそれはだんだん腕ににじんでいて、あまり装着している感覚がない。もともとのつくりがシンプルなせいもあって、布越しに触れても、確かな感触にはかける。
それでも、そこにあると感じながら。
「アルタルフ、あなたには毎日だって歌をうたう。だから、私を守ってくれる?」
「守られるのはイヤじゃないのか?」
娼館での発言を覚えていたのか。リリアはすこし頬を染めた。
「――あなたに守られるのはきっと、イヤじゃないかな」
ふっと微笑むと、アルタルフが顔を真っ赤にさせ、声をどもらせた。リリアは微笑む。
アルタルフの顔色が治まったら、アルタルフのことも聞こう。手始めに、顔を変化させた歌から。
そう思っていると、水平線と青いそらの間に緑色の島が現れた。荷降ろしの船夫がだんだんとあわただしく動き始め、使うロープや金具の準備を始めている。甲板はにわかにせわしくなり、それでもアルタルフの赤く染まった頬は変わらない。
仕方がないなぁとため息まじりに、アルタルフに言う。
「歌をうたう代償に、それぐらいはしてくれるでしょ?」
「……そういうイミか」
――ホントは少し違う気もするけれど。
「そういう意味です」
大人をからかったのは初めてで、リリアはさっきの仕返しとばかりに大声で笑った。
娼館にいたらきっと下品だといわれそうなほど、大声で。
サイトトップ>『うた秘め』目次>第1章 浮浪のたびびと 13