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うた秘め
第1章 浮浪のたびびと 12
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「坊ちゃんがうなだれながら帰っていくぞ」
 鈴の部屋に置いてある私物をまとめているリリアに、アルタルフが声をかける。先ほど意気消沈した様子で部屋を出て行ったセイを改めて思い出すと、胸の中がざわざわと音を立てる。それは付き人のククーも同じで、表情こそなかったけれども、無言で部屋を立ち去った。
 女将は軽い旅装をすこしくれ、リリアはすでにそれに着替えていた。娼館の衣装はなんといっても、旅には向かない。逆にこうした、動きやすい格好は初めてで、膝丈のスカートや日除けのケープといったものが、真新しく感じる。一方で、なじまない感触も。
 着替えているうちにじわじわと、ここから旅立つ実感ばかりしていた。

 旅に出ればきっと、この島には二度と立ち寄らなくなるんだろう。

 後姿を窓から少しだけ見送ると、リリアは置いていかれたな気分がした。こちらをちらりとも振り返らずに漫然と表通りに向かう姿は、いつも通りの姿のはずだった。語りつくせないほどの思い出が胸をよぎる感覚を感じる。全身に痛みを感じる。
 おいていくのはリリアのはずが、セイにおいていかれるような感覚。
「平穏な娼館での生活も、守られていることの居心地のよさも、全部セイがくれた。セイが私を望んだから、私は客をとる必要がなかったし……少し反発もしていたけれどね」
 リリアがアルタルフを客寄せしていたのは、不要な行為だったのだ、本来ならば。
「でも、セイに頼ってばかりじゃいられない。私は旅に出るんだから」
「結局……」
 部屋の隅で荷をまとめ終えている、アルタルフが口を開いた。
「結局お前は、なにがしたいんだ?」
 リリアが、紐を結んでいた手を止める。振り向くと、逆光で表情の見えないアルタルフが荷を持ち、立っている。近づくごとにその威圧感が増し、リリアののどが震える。
「質問の意味が、よく、わからない」
「旅は道連れ、世は情けって言うけどな」
 一呼吸。
「旅の目的のないやつは、すぐに死ぬのが落ちだ。そんな危ないやつを、同行者にはしたくない、俺の気持ちはわかるか?」
 今までにない突き放し方だった。隔絶にも似た距離をとって。今までのような、どこかで距離を寄せようとする、そんなそぶりもない。
「たしかに目的なんて、なくても旅はできる。いってみれば、死ぬためのたびがな。覚悟ができたら船に乗れ。俺は朝一に港を出る船に乗る……とくに行きたい島もないからな」
 最後のチャンスだとばかりに、猶予が与えられた。島を本当に出るのか、リリアは感情を引き戻された。セイの姿はもう見えない。アルタルフも鈴を鳴らさずに出て行った。
 風の音がリリアの耳を横切った。部屋の主の私物しかない、片付いた部屋が眼前に広がる。がらんと。
 服にさえぎられ、あるはずの刺青が見えない。半人前の、娼婦だと言うしるしが。
 今なら。島の民として、生き、暮らすことだってできるかもしれない。セイに見つからないように。ククーに見つからないように、息を潜めて暮らせば。
「……リリア、いる?」
「はいっ、」
 静寂を破り、鈴の音が来訪を知らせる。ハマが仕事を終えて戻ってきたようだ。と思ったら、いつもと装いが違う。外に出ていたようだ。
「リリアが島を出るならと聞いた方が、これをって」
 ハマがくるんでいた麻布をめくると、腕輪が出てきた。銀製の文字が入ったものだ。宝石などの装飾は一切なく、外見ではたいした価値もなさそうだ。リリアも一通り文字が読めるが、内側に刻まれた文字はまったく読めない。
「どなたですか?」
「私の前の、部屋の主から」
 セイの母で、今の領主の妻だ。懐かしい顔を思い浮かべながらそっと手にとると、少しだけずっしりと、銀の重みが伝わった。どうやら何も加えていない、純銀のようだ。光沢を失ってしまってはいるが。
「そんな、高価なものは」
「あなたがここに来た時に、持っていたそうよ。あの方が預かっていて、部屋を預かったときに教えていただいたの」
 旅立ちを予測したようにされていた言伝に、リリアは驚きを隠せなかった。
「これを、私が、持っていたんですか?」
 純銀製の細工を、たとえそれに宝石の類がなくても持ち歩く人間というのは、シトウにおいてだいぶ限られる。連れてこられたのは何年も前で、幼かった。記憶がほとんどなく、名前がやっと言える程度だった。記憶がないが故に付きまとった孤独を、部屋の主が癒してくれた。その感覚までもがよみがえる。
 ……本当にこのまま、私は旅立って言いのだろうか。
 アルタルフは自由を与えてくれた。すぐに旅立たずとも、良いのではないか……? それこそ、アルタルフの言う、目的の見つかったあとでも。
 よぎった迷い。悟ったように、ハマはリリアの両手を取って視線を交わした。
「ねぇ、リリア。リリアはこれから、どうなるのかしら?」
「……」
 アルタルフと、同じ問いかけのように感じて、リリアは口をつぐんだ。
「リリアには決まった未来があったから、私はこんなことを言ってはいけないと思ったの。でも今は自由になったから、言いたかったことが、あなたに言える――ねぇ、リリア」
 何度も心地よい声で名前を呼ばれ、リリアには自然と笑みが浮かんだ。
「リリアは、どんなリリアになりたかったのかしら? どんなリリアになりたいのかしら? どんなリリアに、なるのかしら? 優しいひと? 強いひと? どんなひと?」
 考えたことが一度もない問いかけに、視線が泳いでしまう。
「えっ……と」
「今、言わなくていいわ」

 宿題にするから。

 耳元で小さくささやく声が、リリアの頬を染める。
「ちゃんと、してくるのよ?」
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