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昼間のアルタルフを思い出す。けれどもそれ以上に、この場所にセイがいることは、リリアの許容範囲を超えていた。一日でおきてしまった出来事としては過去最大級だ。
ここにきた。ただそれだけのことなのに。
「近寄らないで」
こんな風にしたことない――そう思いながら、リリアはセイをきっとにらみつける。セイは微笑だけを浮かべて、怒ろうとはしない。一歩一歩を踏みしめて、しゃがみこんだリリアに視線を合わせるように膝をつく。
間近で見せ付けられた表情が、リリアを逆上させた。
「離して!」
微笑が、いやだった――
軽い音が響いて、リリアはすぐに、手のひらがどこにあたったのかを感じた。暗がりであかくはれた様子が見えないから、ショックはその半分だけれども。
「セイが……セイが悪いんだ……」
立ち上がれない自分がもどかしくて、手をきつく握って。
にらむしかない。
「セイが私を選ぶから、私はッ」
――守られることを享受するしかなく。
「どうして私には、セイしかいないの!?」
――その代わりに抵抗は許されない。
「私は、本当は……」
涙はこぼれて止まらない。いつの間にかぎゅっと抱きしめていたセイの腕をなんとか振りほどいて、来た道を戻る。特別客のために他の部屋には一切客がいない。叫びながら、一目散に向かう。
名前を呼んで。
「アルタルフ!!」
――本当のことを教えて。
リリアの叫び声が、糸越しに伝わる。娼館内に張り巡らされた糸と、それを伝う音の振動、それらを特別に拡張する器具が女将の部屋に備わっている。声を明確に聞き取れるものではないが、聴きなれた耳にはリリアの叫び声がわかった。
目の前にいるチョウにふと目をやる。――思えばシトウの外から来たこのチョウを、リリアに世話させたのが誤算だったのかもしれない。よくも悪くも、触発されすぎた。
ふっと自嘲して、リリアを懸命に追いかける若君の声を聞く。娼館の運命も何もかもかかったように聞こえるその声が、女将の心に響く。
――すべては、この島のため。
目の前の彼女を終わらせようと、居住まいを正す。
「チョウ、あんたは、サイガの島民の数を知っているかい?」
「いいえ」
率直で素直。チョウのいいところだ。
「シトウの中で、サイガで子供の生まれる確率はとても低くてね」
「そうなんですか?」
「昔はそうでもなかったらしい。あたしが子供の時からかね……。シトウ出身同士だと、子ナシのほうが多いくらいさ。ところがおかしなことに、どちらかを島外から引っ張り込むと、不思議と子を産むようになる。娼館はそれを一手に引き受けるべく、できたんだ」
チョウは目を剥いた。単なる慰めではなく、そんな役割と目的があったとは……
「男を島外から引っ張ると、男と女の割合がでこぼこだからねぇ、女を外から連れてくるようになった。だからここでは、子を孕んだら一番の上客に頼んで身請けしてもらう――それが商売の根っこさ」
「じゃぁ、リリアは」
その法則に反した存在ではないだろうか。
「あの子は、若君のお気に入りだ」
「……?」
「シトウでは、島の民はすべて、その領主の血統を絶やす要因を作ってはならない。だが、疑われる血統を残してもならない――それはここで生まれる子供も一緒だ。領主を父親としているならば、それが確実でなければならない」
「じゃぁリリアは、……未来の領主のための?」
「そのための、娼館〈コーラ〉さ」
はじめて娼館にきたのは、八歳の時だ。名前以外には記憶がまったくない状態で、気づくと私は〈コーラ〉の一室で泣いていた。
なにもわからずに泣いていると、部屋の主であった女性が、自分より少し年上の男の子を抱き上げながら、自分の元に近づき、膝を折った。
「泣かないで、リリア」
「……どうして、名まえを知っているの?」
「どうしてか気になるなら、泣き止んで、ここに座ってくれる?」
ここ、といって手をたたいたのは膝の上だ。恥ずかしさでぴたっと涙は止まったが、結局その日は、膝の上に座れなかった。
部屋の主はそれでも、寝るときには一緒の布団に、彼の息子とともに入れてくれた。落ち着いて眠り、起き、膝をじっくり眺めては、本当に座っていいのか悩んで。
――彼女の役割を知ったのは、初めての来訪のときだった。
現領主が娼館に来ると主は一晩かえって来ない。子供だけで寝るときもあったが、ときには主の子供も一緒にいなくて、一人で眠るときもあった。
サイトトップ>『うた秘め』目次>第1章 浮浪のたびびと 8