サイトトップ『うた秘め』目次

うた秘め
第1章 浮浪のたびびと 7
←前次→
 チョウはアルタルフに部屋を追い出されたその足で、女将の元に向かった。
 あたりは先ほどまでの喧騒が嘘のように静まっている。奥の方から聞こえる笑い声で、重客のほうに皆が出払っていることがわかる。そうするとなおさら、どこの喧騒からも外された自分が腹立たしい。悔しい。
 足音などは一切気にせず、一路、女将の部屋を目指す。
「なんなの、あの客!!」
 部屋に入るなり女将の顔を見て一声、怒気がこもる。吐き出した息で肩が震え、体が熱い。
 一方の女将はといえば、ハマに仕事を任せてひと段落したお茶を飲んでいたところ。老体には酒より茶が優しい。
 一瞬にして雰囲気が壊されたと思うよりも先に、眉根を寄せた。
「……なんだい、はしたない」
 早足で歩いてきたために、そこかしこが乱れていた。足元のすそはもちろん、髪、胸元、果ては顔や首もとの化粧まで。
 本人が今、鏡を見れば発狂するところだが、女将の部屋には本人の指針から、姿見がない。お茶を手近な場所におき、立ち上がって石箱の中を探る。
「そこにお座り。まず顔から直し」
 石箱からくすんだ鏡を取り出し、新米の娼婦に手渡す。おずおずとチョウはそれを手に取り、常備しているお直しセットでパタパタと直し始めた。一つ大声を出して落ち着いたのか、新米のその様子に女将は目を細める。
 チョウはシトウの外、大陸の北部から来た娘だ。来た当初は化粧の一つもわからなかったが、少しずつ覚えさせてようやっと一人前になった。娼婦のそうした成長が、かすかな自分の楽しみになりつつある。
 そういえばと、思い当たるようにチョウに向かう。
「リリアは?」
 チョウは顔をしかめた。罵声の原因はそれのようだ。
「鈴の部屋にいるんだね? ならいい」
「……なんですか、あの部屋」
「あの部屋って?」
 女将はわざととぼけたように。それならと、チョウは続けた。
「出入り口は一つしかなくて、それには十数個も鈴がついてる」
 直前に場所は知らされていた。けれども、その部屋は、自分が今まで体験したどの部屋とも違っている。作りも、位置も。名前も。
「すべて鳴らしたってかまわないと思った。でもリリアはまず、ハマさんを呼ぶために一番左端の鈴を鳴らした。そのあと、入る前にそれとは違う鈴を二回鳴らした」
 鈴の部屋――そう聞いたからには、鈴があって当たり前だろうぐらいにしか思わなかった。けれどもあの場面、リリアが鳴らす鈴を選んでいる場面は。
「それに、室内は酒がきちんと整っていて、その脇には保存食だってあった。どう考えたってあの部屋、普通の宿屋じゃない」
 矛盾と言う違和感。娼館にある普通の部屋。けれども普通と違って鈴がいくつも散らばる。そのつながりのなさ。
「……あの部屋は、なんなの?」



「どうしよう」
 アルタルフの部屋から退室したは良いものの、鈴を鳴らし忘れたことに気づいたのは、それからしばらく経ってから。
 あの部屋を使うときは、娼婦の入退室に鈴を鳴らさなければならない。鈴の音はすべて女将の部屋につながり、女将はすべてを把握できる仕組みだ。
「うーん……」
 考えたくもないが、このままでは自分はおきて破りだ。どうしよう。
 アルタルフとの一件もあってか、胸がやたらと早鐘を打つ。
 女将の部屋に直接行けば良いのかもしれない。うん、そうしよう。
 部屋の名前は、ほとんどが花の名前がついている。それらから察するに、館の西にいるのは違いない。娼館全体を思い出す。鈴の部屋からおもむろに歩いてしまったようだ。
 小さい頃からいる分、館の地図は頭に染み込んでいる。ただここに来てしまうと、女将の部屋に行くには鈴の部屋を通るか、重客が通されている宴の間を通らないと道がない。迷わず後者を選ぶことにした。
 足を静かに運ぶ。娼館を歩くのに大切なことは、とにかく静かに歩くことだと刷り込まれた。優雅に見える。裾で転ばない。などなど、とにかく利点はいろいろあるらしい。が、反対に「走らせない」ためでもあると思う。
 リリアはチョウよりも、走るのが遅い。小さい頃からこの生活だったから、走る必要がなかった。結果、全力で歩くことができない。
 先ほどチョウが怒りながら部屋を出て行ったときも、そのあとの早歩きする姿を想像すれば、うらやましい以外の何者でもない。自分の体は喘息全力で歩くことを、拒絶するのだから。
「思えば、恐ろしい刷り込みよね……」
 ここに来て九年。刷り込みを刷り込みとすら思わなかった時期もあった。しかし、最近来たチョウは、シトウの外から来た良い刺激だ。
 淡々と考えているうちにさっきまで動揺していた動機は落ち着いていた。そう、自分の中の当たり前を受け入れなければいけないのだ。それがどんな刷り込みであろうと。――いきる道はそれしかない。
「リリア」
 男の声とともに、肩に手が置かれた。反射でその手を振り払い、昼のことを思い出す。小さく声を上げて、腰から下の力が抜ける。なぜだかわからないが、動けなくなった。体の震えがはじまり、止まらない。
「俺だ、セイだよ。どうしたんだ?」
 薄暗いなか、夜目を凝らすと、見慣れた顔が見える。
 外で見たらきっと、抱きついただろう。――ただ、内では。
「何をしにきたの? セイ」
 その眼光に、冷たささえも宿して。
←前次→

サイトトップ『うた秘め』目次>第1章 浮浪のたびびと 7