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うた秘め
第1章 浮浪のたびびと 6
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「なるほど、鈴の部屋にした甲斐があったな……」
 隣ではチョウが首をかしげている。普通の娼婦はこの部屋に来る必要がないから、鈴の部屋の必要性やその意味を知らない。鈴の意味は単に、来訪を知らせるためではなく、多岐にわたるのだ。――想像しきれないほど多岐に。
 リリアはそれを、知っている。幼い頃からこの部屋に住んでいた女性をリリアは知っている。自分の将来に、この部屋が大きく関わることをリリアは知っている。将来の彼女には、この部屋は必要不可欠だ。現状ならば、ハマに。
「忙しいのだろう? 私はリリアで十分だから、君は要らない」
 名前を名乗って数秒と経たないうちに、アルタルフはチョウを切り捨てた。それも名前も呼ばれずに。
 ――コレほどの屈辱って、ないだろうな。
 横目にチョウを見れば、大方の予想通り顔に朱を走らせているのだろう。顔自体を伏せたために色はわからないが、手が小刻みに震えている。歯が口内を切る音が聞こえた気すらする。
 あわただしいであろう娼館の喧騒とは、一線を隠した鈴の部屋で。わずかな衣擦れの音をさせ、それでわずかに鈴がなった。鳴った鈴がなんだったかを確認して、リリアは胸をなでおろす。……アレは飾りだ。
「リリア」
 アルタルフが誘う。
「酒を注げ。足をもめ」
 てっきり、昼と同じく歌を求められると思っていたりリアは、肩透かしを食らった。従えないものでは決してないので、部屋の一角から酒を取り出し、杯に注いだ。
 そうしている間に失礼して、足をもむ。顔を見てもさほど色男ではなく、かっこいいともかわいいとも分類されない。ただ足に触れると、その足は存外に筋肉質だ。旅人と言うだけあって、鍛えられているのだろう。
 今までは、マントと、日差しから皮膚を守るためのだぼっとした、丈の長い服でわからなかったが。
「からになった」
 窓際の壁に背を預けた姿勢で、リリアに口々といった。酒をつげ。つまみを用意しろ。腕をもめ。……およそ、普通の客と大差ないな、とリリアは息を漏らした。
 アルタルフは鈴の部屋の意味を、知っている気がした。
「リリア、お前の昔話をしろ」
「え?」
 腕を終えて再び足をもんでいたところに、そう来た。
「む、昔話ですか……?」
「ああ」
 満杯にしたばかりの酒で口を少しぬらした。斜めから月光が差しいり、アルタルフの顔を照らす。――顔がもっとよければさまになるんだろうなぁと、不謹慎にも思う。
「記憶がありませんから。話せません」
「記憶?」
「ここに来る前からの記憶が、ないんですよ」
「……じゃぁ、来てからで良い。いつからあるんだ?」
 年齢を聞かれても、リリアには答えられない。推定年齢は知っているし、娼館ではその年齢がリリアの年齢にもなっている。……だが、なんとなく、嘘をつくのはためらわれる。
 そうした小さなことをイチイチ突っ込まれる可能性も無きにしも非ずだ。なんとなく。
「約九年前ですね。気づいたら船で、私のほかにも女の子が何人も乗っていました。船に乗ってこの島に来て、ここに買われました。それからずーっと、ここで」
「気づいたら?」
 疑うように聞く。自分だって時々疑いたくなる事実だが。
「ほんとに、気づいたら船でした。私の記憶の始まりって、船なんですよ」
 杯がからになったのに気づくと、また酌んだ。満足げにそれをからにすると、さらに酒をすすめていく。
「来た頃からずっと、鈴の部屋の人のお世話をしていました。今ならハマさん。当時はディゾン様と言う人で……」
 今は、手の届かない人だ。
 ディゾンの名前を久しぶりに口にした気がした。
 リリアにとっての母は彼女で、彼女はおそらく、自分の将来に最も近い。――ハマも。
「昼にあった、セイとククーともディゾン様がご縁で知り合ったんですよ」
「なるほど」
 含んだように言う。それが何かに感づいたようで、リリアは少し居心地が悪い。こっちの情報をひけらかす一方で、アルタルフが何者なのか、こっちはまったくわからないのだ。フェアじゃない。
「あなたの過去は?」
「なんだ?」
「アルタルフ、あなたの過去は?」
 率直にたずねてみる。
「いつから教えれば良いのかわからんからな」
 苦笑いを浮かべたかと思うと、飲みかけの杯を床に置き、寝台に横たわった。
「寝る。下がれ」
「――はい」
 真ん中の鈴を鳴らし、退席する。

 おおきくおおきく、息を吐いた。

 怖かった。
 鈴の部屋だから平気なんだと、なんど動機を収めたことか。安堵で今、心拍数が尋常じゃない。
「……怖かった……」
 星の位置はまだ低い。夜もまだ、――長い。
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