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「……?」
リリアは訝しんでいた。今まで、セイとククーに歌うなといわれたこそはあったものの、歌えといわれたのは今回が初めてだ。自慢じゃないが、裏道でこそこそと歌っている歌が聞こえるのは、裏道にいる人間くらいしかいない。それは大方が娼館の客で、歌になんて興味すら持たずにリリアの腕の刺青を見つめるだけだ。
セイとククーは緊張した面持ちだ。雰囲気が、いつもの二人とは明らかに違う。毛穴が開いているような感覚すらする。
途端、歌うことに恐怖を覚える。怒りをあらわにしたアルタルフの表情。険しいセイやククーの表情。もしかしたら小声ですらも歌ってはいけない歌だったんだろうか、本当に。
ここから娼館までは距離がある。ほんとうに小声で歌っていたのだ。部屋に案内されたアルタルフに届いていたとは思えない。……それとも小声ではなかったのだろうか。聞いたら、何かが起こるんだろうか。
セイとククーはそれを知っていて注意してくれてたんだろうか。
――どうしてセイとククーはそんなことを知っているのか。
うたって、なに。
セイの腕を強く強く握る。しわができるほどに。怖くなんかない。セイが守ってくれる。ククーだっている。
怖いと思ったら、負けだ。
「うたなんか知らない。人違いよ」
「……歌う気はないのか」
「私が、何の歌を歌えるって言うの?」
アルタルフが辺りを見回し臆した。セイとククーの顔を見る。状況を不利と判断したのか、娼館のほうへと戻っていく。
アルタルフの背中を見ると、リリアは緊張が一気に抜けてその場に座り込んだ。かろうじてセイの服を握ったままでいるが、腰は抜けたように力が入らない。ただリリアがこれからしないことは明確だ。
「帰らなきゃ」
アルタルフと娼館で再び会うことが怖いと思う。けれども、あそこがリリアにとっての家だ。帰らなくてはと、のどを震わせる。
「今日はうちに泊まれ。ククー」
セイがククーに声をかけたのを合図に、リリアは二人から距離をとった。
「帰る。ちゃんと、帰るから」
「……あいつが、娼館にいるんだろう?」
そうだけど、といった声は思わず小さくなってしまった。リリアは頭を振って、両手をぎゅっと握った。ここで頼るのは場違いだ。
「大丈夫だよ。心配しないで。セイ、ククー」
できる限りは強がって、思いっきり娼館まで走った。セイが呆然としている以上、ククーはリリアを追いかけられない。彼を守ることが、第一義だからだ。
「帰りましょう、セイ様」
セイを隠すように自身の持っていたフードを頭からかぶせた。日陰ではまだマトモだが、日向では照りつける光は容赦ない。
「ご案内しますから」
フードの中で縮こまっている主の姿を想像しながら、セイはその横に立った。手をつながずとも、目が見えずとも、互いに互いの気配で行く方向はわかる仲だ。――それだけの長い間、ククーにとってセイは主だった。
時間軸だけで見れば、セイが主でなかった時期のほうがまだ短い。けれども、現在の自分のことを考えると、生まれた時からずっとこの場所にいた気さえする。記憶の混同などないと自嘲しつつ。
「着きましたよ」
港から歩いた高台に、領主の館はある。島自体が小さいために、領主の館にしても驚くほどの広さではないが、サイガ島の一般家庭からすれば十数倍の広さは持つ。
入り口にはハイビスカスが咲いている。他の島から土ごと持ってきたもので、サイガの土壌ではうまく根つかない。ハイビスカスのにおいがあるのはサイガではここぐらいのもので、嗅覚で自宅に戻ったことに気づいたセイは、そのフードをはずした。
外してすっとククーを見据える。ククーにとってはこの瞬間が一番うれしくもあった。
命令をしようか悩んでいるのだ。命令自体を好ましいと思っていないこの主人が珍しく、命令を出そうとして迷っているのだ。身を案じているのか、任務の失敗を恐れているのか――ククーには特に前者の理由だと思っているが、――それにしても、こうして悩んでいるときの百面相は、みているとこっちがほほえましくて顔をほころばせてしまう。
「なにか?」
喜びを押し隠しながら、あくまでもしれっとたずねるのが流儀だ。顔に表情を浮かべると、さとい主人はいろんな考えをそれ以上に浮かばせ、オーバーヒートさせる。
「リリアを、守りたいんだ」
セイは表情に安堵した。ククーは笑みをこぼした。
「あなたはずっと、そう思っていらっしゃいますから」
今までもずっと、彼女を守ってきたのは、その意思だったとククーは思う。そんな人間のもとに自分がいられることを幸せだと思える。
そう、自分は今、この主人のしたでひたすらに、幸せを享受している。
「あなたの望むことなら、私は全力でさせていただきます」
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