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うた秘め
第1章 浮浪のたびびと 2
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 近くの階段を下りていくリリアを、追いかけるような形でアルタルフも地下に入る。ここが娼館〈コーラ〉の入り口だ。出入り口には真っ赤な厚い掛布があるだけの、簡素なものだ。この真っ赤な暑い掛布を出入り口にかける習慣は、ここ〈コーラ〉が始まりとなって、今ではシトウ内すべての娼館で見ることができる。
 照りつける太陽を避けて、二人が陽の入り込まない店内に入ると、わずかな涼しさと湿気。さらに奥へ進むと、昼でも室内が薄暗いために燭台がともされている。その明かりに照らされるように、アルタルフは数年ぶりに顔を見つける。女将のナガラだ。
 ぷっくらと膨れた姿からは想像できないが、もとは現役の娼婦だ。アルタルフはその現役を知る数少ない上客で、ナガラの顔には現役時代を髣髴とさせるような笑みがこぼれる。
「おや、何年ぶりだい? それにまぁ、イロモノ連れて」
「イロモノ?」
 ナガラはリリアに目配せをして、出払わせるようなしぐさをする。アルタルフが振り向くと、彼女は眉根を寄せ、また外に出て行った。
「……客を取らせないのか? いつからここは、女を客寄せだけに使うようになったんだ?」
「まっさか。あんたにはあとで別の娘を送るさ。ただね、あの子はだめなのさ」
 ナガラは肩をすくめて、おどけるように言った。太陽に手のひらを向けるように両手を上げると、その独特の位置――ひじ――についた花の文様が目に焼きつく。直後に鈴の音がなり、若い女がナガラの持った鈴付の鍵をさらった。
「お客さん?」
「数年ぶりの上客さ」
「へぇ」
 自信と妖艶さをあわせたような笑みを浮かべる。娼婦という割には露出の低い服装に、さらに薄い紗でできたショールを重ねている。指のつま先まできめ細やかな肌から察するに、この娼館でもトップクラスの娼婦だ。
「いっつも同じ顔で飽きてたところだもの、歓迎よ。――ハマというの。よろしくね」
 首もとと笑みの際にできる目尻のしわは、年齢しか語らない。
 年齢に見当をつける一方で、アルタルフはそんな無意味な行為をする自分を自嘲した。
「さ、こっち」
 アルタルフに親しげに、腕を組み、決められた部屋へと移動する。陽はまだ高く、傾いてすらいない。
 部屋に着くと、酒をすすめられるがままに一口二口と飲んでいく。
「さっきの……」
「なぁに?」
 いや、と首をふった。さっきであったリリアがふと頭をよぎって聴いてみようとも思ったが、ほかの娼婦の話は、するだけ無駄だとわかっている。
「聞きたいことならなんでもいいわよ? 私は心が広いから」
 女の怖いところは、男の空気を読んでしまうところにあるのではないか。
 思えば、鈴がなってすぐに来たのだから、よほど側にいたのでなければ無理だろう。走った息切れなどは微塵もなく、優雅に鍵を受け取ったあの所作からしても。
 そうすれば、先ほどのナガラとのやり取りは聞いているはずだ。もしかしたら、リリアと一緒に入ってきたところから見ていたのかもしれない。うすうす感づいているのか、底知れない笑みだけを浮かべている。
「さあ?」
 それでもアルタルフは、なにもないようなそぶりで手身近な砂糖菓子をつまんだ。そもそも自分が、誰に興味を抱こうと、それは何の意味もないのだ。ナガラも老いた。目の前のこの美しい娘も、――老いるのだろう。
 そんなことを考える自分に自嘲しながら、薄暗い部屋で美女を傍らに酒を飲む。雰囲気にさえ酔ってしまえば、これ以上の至福などないのだろうと思う。彼自身が多く言葉を発しない雰囲気を感じてか、ハマのほうも口を閉ざし始めた。
 耳を澄ませば、店内を流れる風の流れさえ聞こえそうなほどの、静寂の中、歌がきこえた。静寂だから聞こえる、小さな声で。風に震えて飛んでしまいそうなはかなさも秘めて。
 ただその歌声が、アルタルフの腕の中の水分を、うばうなどとは想像もしないだろう。
「え……」
 その変化にいち早く気づいた第三者のハマは、その目を疑った。
 今まで健康な青年のそれだと思っていた手がみるみるうちに細っていく。瞬きをする間にも細くなり、ついには女の自分の手よりも細く、肉のないものになっている。顔は変わらず、杯を持っていた右手だけが老いている。
 アルタルフがうめくように言う。
「今の歌は、誰の歌だ」
 リリアだと、ハマは声を振り絞って答えると、アルタルフは座っていた寝台からすばやく離れ、部屋も出て行く。客が逃げたとハマの心に一瞬去来しても、抜けた腰がどうにもならなかった。
 歌が止まった瞬間に、老いた腕は、元に戻っていたのだから。
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