ずっとずっと、心の中に歌がある。
そのすべてを、私には歌い上げる力がない。――なぜだかそんな、確信だけがずっとある。
胸に秘め、時々口ずさんで。止めてしまう。
最後まで歌うのが、怖い。何かを失ってしまいそうで。
この感覚は、予感だったのだと思う。
第1章 浮浪のたびびと 1
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港に着いた途端、船からひらりと身軽に飛び降りる。目深にかぶっていたフードが頭から外れ、その黒い髪を天高くから太陽が照らす。人より少し低い背が、多少の派手な行動も隠してくれる。
顔を上げると、海風が頬をなぜる。久しぶりでもなんでもない、今までと大して変わらない環境に、旅人は舌打ちした。今までいたどの島よりも住みよいとされるこの島の、すこしほかの島よりも高い湿気が彼は嫌いだった。五年ぶりにこの島に降り立つ。変わらぬ出店の、老けた店主の顔を眺めたり眺めなかったり。
一日で島を五周はできるほどの小さな島だ。西端にある少し小高い丘から島の全貌が見渡せるほど、土地の起伏もほとんどない。土地そのものが小さいため、農作も酪農もあまり活発ではない。ゆえに狭い道に並んだ露店の商品は、その原材料のほとんどをほかの島からの持込に頼る。
――木工。銀。金。削れるものならばすべてを細工にさせる、職人の島。それがこの島だ。
この島を治めるのは代々続くサイガ家の者。故にその名を冠し、サイガ島とも呼ばれる。公海上にある四つの島、通称シトウの西に位置する。サイガ家が幅を利かせている一方で、隣近所すべてが親戚のような島。旅人は人々からの奇異の視線を浴びる。もっとも彼は、その背の低さゆえに、あまり島人に旅人と気づかれなかった。一路、いつもの宿に向かう。
この島で宿といえば二種類、ニ軒しかない。酒場もかねた宿が一つ。女を買うことを前提とした宿が一つ。旅人の行く先は後者のほうだ。酒場で船を操舵していた船員に絡まれることなく、金さえ払えばあと腐りのない付き合いができる娼館の方が、男にあっていた。
地面からの照り返しの熱で、数分と歩いていない額に汗がにじむ。
船に乗っている時間が長かったせいなのか、いつもよりも疲労が激しい。久しぶりに感じる強い疲労に、旅人は足を止める。気のせいか、空耳まで聞こえてくる。歌が、かすかに聞こえるのだ。
相当疲れているのだろうと自覚し、自信を奮い立たせようとそろそろ店につくはずだと辺りを見回す。
一瞬蜃気楼のようにも感じた。
日の焼けていない少女が立っている。このあたりでは、この肌色は珍しい。無愛想をそのまま顔の上に載せたような表情で、じっと旅人を見つめている。旅人がにらみつけるも、怖気づいた様子はない。
不気味に思った旅人は、それから少しも経たない内に目をそらし、疲労を追いやって再び娼館を目指す。少女は何も言わずにその場に立っている。その脇を通り、振り返ると、また少女と目が合う。右腕を見れば、中途半端な花の刺青。
「……見習いか」
春を売る女は、一人客をとれば一人前とされ、右腕に花の刺青が彫られる。下半分の欠けた花は、見習いを示す。包帯で隠す少女もいるなか、隠そうとするそぶりもない。
「道案内でもしてくれるのか?」
この島についてからというもの、旅人にとってはこれが最初の会話だった。
「リリア」
「……?」
しばらくの沈黙の後、少女が唐突に名乗る。少女というには低い、大人びた声だった。
「私はリリア。あなたは?」
聞き方は幼い。駆け引きは微塵も感じられず、旅人は疑いもなく答える。
「アルタルフ」
少女はひらりと背中を向けて歩き始めた。誘われてもいないが、アルタルフもそのあとをついていく。娼婦ということは、行き着く先は一つしかない。
ただそう考えて、その背中を追う。
――はじまりに、なんらかの変哲はなかった。ただアルタルフがリリアの声を聞いた頃には、額に流れる汗は空耳とともにすっかりさめた。体もさっきまでの疲労が嘘のようだった。手の甲にだけ、妙にしわがよって残っていた。
アルタルフの、本当の体を知らせるように。