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双子編第1話
天候は雲天。その上、八月とは思えない寒さが薄手のパーカー越しに伝わってくる。
そんな寒さも一歩自動ドアの内側に入れば、そこにある快適な室温でごまかされる。ほっと一息をついてあたりを見回すと、右手に受付とたくさんの楽器が置かれた広いフロア、その奥に掲示板がある。新譜情報はびっしりと詰まっていた。楽器店でもあり、CD屋でもある。そして、音楽教室も経営している。そんな企業は、多くない。
掲示板に張られた見慣れたポスターを、西尾光は、じっと一人で見つめていた。左手の廊下からドップラー効果を伴う声に振り向くと、両手をめいっぱい前に出す。
「……光、そんな全身で私のこと拒絶しなくても……」
光の両手が、少女の顔面にヒットしたが、それでも少女は腕を必死に動かした。所在無さ気にもがく両腕は、どうやら彼を求めているらしい。
「あっ、このポスター! 今度の定期発表会のだよね!? 光との連弾、楽しみだねぇ〜」
あきらめて一歩下がった少女は、ポスターの感想を漏らした。目の前で眉間にしわを作る光の様子など意に介さず、少女はマイペースな発言を続けた。一瞬気を抜いた光の右腕にしがみつくと、光が腕を振ろうとしても離れる気配はない。
「公衆の面前で抱きつくのはいいかげんにヤ・メ・ロ。イイオトナなんだろ? 陽」
「かーっ、たった八年でこんなに変わるものなのかしら……ああっ、私のかわいい光を、あなたはどこに置いて行ってしまったの……!!」
最近新しくなったばかりの受付嬢が、くすくすとしのび笑いをする。そうだろう、弟に拒絶された姉がきれいとは言えないフローリングに手をつけ膝をつけ、悲しみに暮れている図は、関係者でなければ、彼も笑っている。
だが彼は第三者でない以上、ここで彼女を見放せば、間違いなく『血も涙もない』と、少なくとも今近くにいる受付嬢には噂されるだろう。広くないこのビルの中ではすぐに噂になってしまう。そうでなくても、十五年もこのビルに通い続けている彼は有名人だというのに。目立つところで目立つのは仕方ないにしても、プライベートではなるべく目立ちたくない……と言うのは、平凡な男子高校生として間違ってはいないはずだ、と思いながら、彼は姉の前にしゃがみ、手を出した。
「ほら、」
「光、もう少し優しい言葉を選ばなきゃ、彼女が出来ないよ?」
「……あーもうっ、置いてくっ!!」
「いやーっ、置いてかないでーっ」
慌てて立ち上がった陽が、前方不注意で光の背中にぶつかった。大きな音を立てて陽が尻もちをつくと、受付嬢はこらえきれずに、社交上口許は手で覆っているものの、声は明らかにしのぶ以上にもれていた。
笑いをこらえ切れなかったのは、光がこれから昇ろうとした階段の方向にも、もう一人。渋々、といった表情で陽に手をさしのべる光の背中から、笑い声は陽が立ち上がっても続いた。
「相変わらず仲がイイのには感嘆するが、いちゃつくのはせめて家の中でしろ、双子ドモ」
「須王! やっほ〜」
「俺はいちゃついてなんか――っ」
光が反論をしようとすると、陽が驚くべき速さで須王のとなりに立ち、須王の背中を力強く叩いた。
「やっだーもう、須王ってば! もー、私はいちゃつく気満々なんだけど、光がまだ純情うぶなかわいい少年だからさぁ〜っ」
「ほほう」
「陽! ――っ、須王!!」
二人が結託して光のウィークポイントを責めることほど、彼にとっての拷問はない。双子の姉である陽は家での、高校からのクラスメイトである須王は学校での弱点を握り、異性であるにも関わらず、困ったことに二人共、仲が良い。
光は姉の腕を取って、無理やり階段を昇り始めた。笑いながら須王に手を振る姉に苛立ちはあるものの、公衆の面前でいじめられるよりかはずっといい。受付嬢一人といえど、光にとっては立派な「世間」だ。
「あーたのし。光、もー、大好きー!」
酔っ払ったサラリーマンのように饒舌になった姉の陽を半ば引きずりながら階段を昇る弟の光。ぐるぐると回る階段を昇ること三階分。『シズク楽器音楽教室』が、彼らの通っているところだった。
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