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以来、穂波様は実兄の竜胆様と縁様の屋敷、高穂様は異母兄であり許嫁の、春日様のもとで暮らされる運びとなった。
高穂様は春日様の了解を得て、毎日、穂波様の館へ遊びにいかれた。時として一緒に近隣への散歩にもいかれたが、供を連れて、馬ではなく輿に乗っての散歩は、やはり配慮されてのこと。穂波様がつまらなそうに頬をふくらませても、お輿をお使いになり、そうであっても、二人きりで過ごされる時間を大切にされた。
穂波様には在居をうつされた時点で、飛鳥川に嫁すことを竜胆様より伝えられ、穂波様はさしたる動揺なく、受け入れられたという。
日が暮れかけると高穂様はこれもまた輿で、お帰りになる。穂波様は夕食から寝るまでの間、縁様と一緒に過ごされることが多かった。とてもたわいのない、おしゃべりをされていた。
「なんだか、明日には川の神に嫁ぐのだと思っても、実感がありませんね」
「そうね。私も、竜胆のもとに嫁ぐときはそんなものだった。――もう、七年もたつのかしら」
「ななねん……私が七つのころでしたか」
ひいふうと指折り数えて確認する穂波様のご様子に、縁様は目を細められた。子供の世話のほとんどが乳母や侍女に任されている縁様にとって、生まれたときからことある事に面倒を見ている穂波様や高穂様は、子供か、それ以上に面倒を見たような気分になる。
過ぎた年月を数えるとあまりに長く、けれども短い。
「不思議なものでね。嫁いだ頃は、あの人と一緒になることは暗い未来だったのに、今ではこうして笑っていられる」
「縁の姉上が、そんなことを?」
「私は、春日と結婚すると言われてきたから。けれども結婚を命じられた相手は竜胆で、正直がっかりした。だからね、竜胆はぱっとしない優男にしか見えなかった」
「縁の姉上は、よくはっきりといいますね」
「穂波はずっと、笑っているのが得意ね。どんなときでも」
縁様の言葉に、穂波様が言葉を詰まらせる。灯火に浮かび上がる二人のお顔。浮かび上がる白い肌、宿る眼光。月明かりの少ない、閉ざされない室内、日の当たるときよりも黒い畳。陰影が、二人の玉ともうたわれた美しさに迫力を加える。
「笑っていなければ、なりません。私が笑っていなければ、……悲しまれる」
「優しい子ね。嘘のような笑みを、ずっと続けるの?」
言葉よりも雄弁なほほえみが、薄暗い中でもはっきりと、縁様の目に飛び込む。
「今ここでは嘘で笑うことは必要ないのに。それでも」
「姉上。これは、罰だと思うのです。私は生き過ぎて。それも、姉上と二人一緒にいれば幸せなのに、もっと別のかたちを願ってしまったから」
穂波様がぎゅっと握った右手首に、紐のあとがくっきりと刻まれる。
「母上がうらやましい。姉妹一緒に、同じ人のもとに嫁すことが、できたのだから。女の私たちが一生離れずに、過ごせる唯一の方法だと思いませんか?」
すっと立ち上がった穂波様に、縁様が言葉をかける。――おそらくは、最後の。
「幸せになってほしいと、私は何度も願ったのに。神様が意地悪なのね、私たち姉妹に」
「この国に意地悪でなければ、私はこれで、かまいませんわ」
いつものように浮かべられた穂波様の笑みは、開け放たれた戸の、差し込んだ月明かりに映えて、この世のものと思えぬ美しさがあった。
儀式の日の朝。陽があけぬころから、準備が始まる。
主役である穂波様は、竜胆様のお屋敷近くにある池で身を清められたあと、衣装支度を調える。婚礼衣装は錦も含めた色鮮やかなもので、用意に携わる侍女の中には、あまりにも絢爛すぎる衣装に、手をふるわせてまともな仕事ができなかったものもいるという。
「皇女様、その手首の飾り紐は、髪を結い上げる際に使いましょうか?」
「……このままでも、平気かしら?」
「水を含むとふくらんで硬くなりますから、少し緩めに結んでおきましょう。手首を痛められるのは、いやですから」
「じゃぁ、そのように」
春日様にいただいた飾り紐は、右手首に少し緩く、つけられた。結び目はきれいに飾り結びを施され、容易にほどけないようになっていた。
そうして身支度を終えられると、宮殿に。そこで父上であらせられる大王と最後の言葉を交わし、結婚相手のもとへと赴く。
今回の儀式は、あくまで皇女の結婚である――形式はそれに則って進められ、つつがなく進んでいた。相手が川の神であるがゆえに若干の特殊性は含んでいたものの、急遽選ばれた吉日は空がすっきりと晴れず、臨席した春日様や竜胆様も表情を曇らせていた。
「……いよいよか」
飛鳥川へ向かう道中、春日様も竜胆様も穂波様の乗られた輿を先導する役割をされていた。お二人とも馬上にいながらにして、春日様は竜胆様に声をかけた。
「そうですね、兄上。高穂は今日、どんな様子でしたか」
「なにも。――本当に、屋敷に住まわせてから覇気が失われて、調子が狂う」
「まるで、結婚したばかりの頃の縁ですね」
「あれに、覇気があるか?」
「ええ、ですから覇気ではなく、優しさが」
「なんだ、それは」
「私のもとに嫁いで一月は、笑いもしませんでしたから。何をしてもアレが悪いコレが悪い、あの侍女はやめさせるべきだとか、お前が一番気の利かないとか」
おっとりとした縁を想像する春日には、そんな縁が想像できない。
「毎日のように高穂が縁をなだめて、尋常ならざる様子に穂波が泣き始めると、縁も心を痛めて優しい縁になったのです。懐かしい」
「そうか」
春日様の横顔に、いつもと違うものを感じ取られた竜胆様が、手綱を手が白くなるまで握りしめられた。
「覆せないのでしょうか、兄上。今ここで私たちが」
「やめろ。大王の決定だ」
「……。はい」
川についてすぐ、儀式ははじまった。
穂波様は、川の神に嫁がれたのだ。
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