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飛鳥茶話
第4話
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 高穂。穂波。春日。竜胆。縁。などなど。大王の血脈に連なる方々は、本当の名とは別に、呼び名をつけられる。本当の名は高貴なものとして、また命につながるものとして、直接口の端に上らせることは、「忌み事」とされたのだ。
 呼び名は大概、大王の思いつきでつけられた。とりあえずは生まれた直後につけられるが、呼ぶたびに名前が違っていたり、言いにくくて何年か後にかえられたり。とにかく、大王が自由気ままに、ご自身の呼びやすいようにつけられた。
 たいていの場合、由来らしい由来はない。けれども、高穂様と穂波様は、確固たる理由があった。高穂様と穂波様が生まれた年、例年にない豊作だった。ただそれだけと言ってしまえばそれだけかもしれないが、穂の実りは多ければ多いほどよいというもの。喜びこそすれ、残念がったりは誰もしない。穂波様は特に、ほんとうの名前にも穂、とあることから、大王は凶作の兆しが見えるたびに穂波様のご機嫌をおとりになられた。それで自然と、天候がよくなったこともある。
 そんな話を伺った諸臣などは、穂波様を「飛鳥川の皇女」とお呼びになることもあった。高穂様などはその話を伺うと、嫌な顔をなされたが。
 なぜかというと、飛鳥川は、雨が降ったりするたびに流れが変わり、周りを困らせる。明日はどうかと、雨が降り、川の流れが変わる度にだれもが頭を悩ませる。だから皇女をそう呼ぶのは、「気まぐれ」「わがまま」の、暗喩であったりもしたのだ。
 ご本人の性格がどうであったのかは、別として。



 縁様が高穂様と穂波様の屋敷にいらっしゃった日、高穂様は、いつものように日の当たる丘ではなく、朝廷に赴かれていた。手に握りしめられた文は、その日早馬できたもの。家臣の目を盗むようにして殿内を練り歩き、行き着いた先は大王の坐すところ。
 大王は、寝起きさながらのおくつろぎ方。けれども高穂様を見るやいなや、その眼光に鋭いものが宿る。
「今年は雨期が、そろそろ来るはずなのだが」
 格好とは不揃いな、まとう雰囲気に、けれども高穂様はひるむご様子はない。先日、春日様をにらんだときと寸分違わぬ憎悪をむきだしにして、お父上であられる大王をにらまれた。
「だれかに祈るよりも先に、神に祈ればいい。だめならば、蓄えを解放すればいい。――間違っても、穂波には手を出させない」
 言って、握りしめた文をたたきつけられた。大王はすっとそれをよけ、手にとって広げた。筆跡は角ばった見本のような楷書。字を崩すのは苦手だとぼやいていた、息子を思い出す。妹のためを思って知らせたのか、それとも妻を思いやったのか。
 どちらにせよ、知られたのは計算のうちでもあった。それは、大王が、自分の娘に知らしめるために。
「わたしは、誰であろうと、どんなことであろうと、命じることができる。知っておろう?」
 目の前にいる彼の娘はすべてから逃げて、避けて、毎日のように郊外の丘にいた。言外に追求された言葉を感じ取って、高穂様は顔を赤くなさって、髪を縛っていた、飾り紐も投げつけた。衝動で、肩からかけていた薄絹が、はらりと床に横たわる。
 高穂様はその場に座り込む。
「知っているわよ! でも! 生まれは偽れもしなければ、かえることもできない! 死ぬこともできない! ……でもあの子は、私の唯一の、血のつながった妹で、争いと無縁な、幼い、真っ白な」
「高穂、それは違う」
 大王とはうってかわって、朝服を身につけて身支度を調えている春日様が、陽を後光のように抱きながら現れる。
「何も知らないことは、真白か? ――否、それは空虚と言うんだ。花の名前すらもろくに知らない、お前が穂波の分の知識まで吸い上げたようだと家臣に笑われる。そうして笑われるのはどちらもだ。皇女のくせに知識の広い高穂、皇女のくせに浅慮な穂波、穂波をそうさせたのは誰だ? そうしていくことが、彼女の幸せか? ただおまえと二人だけで過ごす日々、本当に穂波は、幸せなのか考えたことがあるのか?」
 大王は静かに、目を伏せられた。
「穂波は、すでに長く生きた。生まれた日、呼吸すらうまくできなかったあの子は今、神々によって生かされているとしか思えない。ならばあの子の結婚相手は、すでに決まっているようなものだ」
「……ならば本当に穂波を、川の神に?」
「高穂、どうしてそれを知ったのか、俺は知らんが」
 春日様は一言置かれた。うすうす勘づいてはいらっしゃるだろう。妻も妹も思いやる優しい異母弟には、春日様は信を置かれている。ともすれば男も女も骨肉の争いをする大王の血脈、そのなかで奇跡のようにあの優しい皇子は、黙っていらっしゃることなど、できなかったのだろう。
 けれども、だれもが一緒であられた。
「大王が決められたことに、だれも逆らえない」
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