少女は赤羅という老人に話をねだった。赤羅は酒と引き替えに物語る。――時は、大王の坐す頃。高穂と穂波は、仲のよい姉妹だった。年頃になっても大王の決めた結婚を頑として拒む高穂に、穂波は不思議に感じながら、それでも「日常」は続いていた。けれどもじんわりと、時は二人に離別を告げる。
始まれば、必ず終わりが来ます。
なので、このサイトも「始まる」以上、「終わり」がいつか来るものとしています。現状、『明るくなる方法』が完結したら、サイト管理人業はやめようかなーと考えることが多いです。プライベートもありますから!(笑)
なぜかというと。
サイト名の「遊戯自快」は、『史記』老子韓非列伝に由来します。
我寧ろ汚涜の中に遊戯して自ら快とす
老子が「うちに仕官しない?」と言ってきた使者を追い返したときの言葉です。(きれいな場所で薄汚いことをするよりも、あなたたちのいう)汚いところで遊ぶほうが、私には快い。という訳になります。私はサイトに対して、そういうスタンスです。誰もが蔑もうと、「私」が楽しんでいる間は続けます。「私」が楽しめなくなったら、それが閉鎖のころあいなんだと。
ただ、作品には「完結する」義務があると考えます、公開した以上。なので、作品が完結するまでは、極端なところ、自分が楽しくなかろうと続けるつもりです。
一番書き上げに時間がかかりそうなのが『明るくなる方法』なので、これが書き終わったら、サイト管理人辞めるかな~ぐらいの心の持ち方です。と思っていたのに、『うた秘め』もなかなか微妙なところです(笑)
いきなり閉鎖することはないと思います。続けられる限りは続けようと。
ネットの片隅ですから、わざわざいらしてくださる方には、はっきりと誠実に、言っておこうと思ったのです。
作品について、「ハッピーエンド」か、「アンハッピーエンド」かは、読者の方にお任せする、というスタンスを取っています。死にネタがあろうとなかろうと、「ハッピーエンド」か「アンハッピーエンド」かは、その時々によって変わると思います。
ぶっちゃけたところ、最終的に人間みんな死んでしまうものですから。私は小説を、「人生すべてを書ききる」ものでなく、「他人の人生の一部分を楽しんでもらう」ものだと思っています。
登場人物たちの生活の一部分を、私は文章にしただけで、「その前」だって「その後」だってあります。でも考えたうちの「8割」までしか書かない、と決めています。残り2割は、読者の方の余地です。煮るなり焼くなり好きにしてください(笑)
どうしてこんなスタンスなのか? というと、夏目漱石先生の『こころ』の影響が強いです。その後私はどうなったのか? 先生は本当に自殺したのか? 奥さんはどうなったのか? 人によると、漱石は「私と奥さんが結婚するところ」まで書いたといわれています。(まぁうそだと思いますけど)でもそこまで公開すると楽しみがないから、途中で止まっている――と。
私は『こころ』の続きを二次創作した人間です。そうした楽しみのほうが、「読むだけ」「感想を書く」よりももっと、高度な楽しみ方のような気がします。
押し付けだとは思いますが、そうした理由で、ラストは中途半端なものが多いです(笑)
幸せか? 不幸せか? ――それは正直なところ、「受け止め方です」とお答えします。
同じ状況でもそれを「幸せ」と感じる人もいれば「不幸」と感じる人もいます。小説の解釈もそれと一緒だと思います。私の中では精一杯の「幸せ」な終わりも、他の人からしてみれば「不幸」かもしれません。
だから、「これはハッピーエンドですよ」と表示することもできません。申し訳ないのですが、「絶対幸せな終わりがいい!」という方には、向いていないサイトかなーと思います。
ただここで一つ、ネットの片隅で叫びたいことが。
絶対的な幸せって、ないと思います。
誰から見ても、100人中100人が幸せだと思う幸せはないと思います。そんな哲学めいたものをエンターテイメントに持ち込むことの是非は人それぞれだと思います。私の作品については、持ち込むほうを是としたい。
以上、ささやかな主張でした。