『億ドルの彼女』 後編

後編

 少女は本宅の和室に通された。座布団に慣れない正座をしてしばらくすると、二番目にインターホンにでた彼女が、お盆にお茶とポット、お茶請けを持って現れた。この家の主人、三島祥子だ。
 家の中といえどもしっかりメイクの彼女は、そういえば自分の中にあった「作家像」をものの見事に粉砕した人だったと、少女は思いだしたように笑みをもらした。
「何の、ご用向きで?」
 身なりはしっかりしているが、締め切りが近いのか、雰囲気がピリピリとしている。はたまた、少女が来た理由を察知しているからか。それとも、突然の来訪そのものか。
 礼儀から考えれば、積極的に用事を聞くのは、ほめられた態度ではない――と少女は思っている。ゆえに少女は差し出されたお茶を飲んだ。ひとこと、いただきますと断って。
「いいお天気ですね」
 通された和室は来客用なのだろう、開け放たれた障子から庭を一望できる。都心の喧騒が嘘のように静寂な空間に、遣り水の音が届く。木陰にあたる縁側では、落とされた影を通る風が涼しそうだ。
「暑くて死にそうよ」

「お茶、おいしいです」
「この暑い日に、よく飲めるわね」
 この暑い日にお茶をホットで出すという攻撃にも屈しない。少女は外見に似合わず強固だった。
「おかわり、いただけます?」
「とっとと話を進めろっ」
 がたんっと大きく音を立てて揺れた机にのっていた、少女の入れた三島祥子のお茶が倒れた。
 傍らではらはらしながら見ていた家政婦が急いで布巾を持って駆けつけ、後始末をする。また人がいなくなるまでの間、わずか数分ではあるものの、続いた無言を少女が破る。
「数年前の約束を」
 今まで以上に凛とした瞳に射ぬかれ、祥子は一瞬ひるんだ。「――だと思ったわ。でも残念ね、あいにく、景品はここにはいないわ」

 少女の言葉をさえぎって、祥子はかたくなな拒絶を示した。少女はその笑みの中で柳眉のみをあげ、一方で好奇心をあおられた。
「たのしみね」
「あげないわ」
「じゃあ、見つけたらよろしいかしら?」
 柔和な笑みを絶やさず、少女は控えめではない態度で言った。
「約束、ですもの?」
 少女はすくっと立ち上がり、廊下にでていく。祥子は追いかけず、今日の朝刊を見た。
 『内閣支持率過去最低』『特許料は推定数千万超え』―― 一面に躍る見出しと、写真を見れば、またためいきをついた。
 動けば身から錆が出ないとは限らない。あれには、厳重な鍵をかけている。まず開かないだろう。一抹の不安はかすめるが、あきらめるまで、身を潜めていればいい――

 祥子はそう思いを巡らしながらも、小刻みに机を叩く指の動きを、止められなかった。



 三島翔は、家で一番セキュリティのきいた離れの地下にいた。ピッキング知らずの鍵がかかった扉が一つ、母と自分の指紋でのみ開く扉が二つ、この部屋に到着するまでにあるのだ。三重の扉の向こうにあるのは金銀財宝ではなく、十人ほどが一週間分そこそこ生きられる食料と水、本とプリペイド式の携帯、小銭――そう、ここは何かあったときに暮らす部屋だ。ベッドもある。暮らせなくとも、ここに非常用のものをおいておけば何かあったとき安心、という。
 地下にあるため採光はよくなく、換気孔の働きはわずかという、何日も暮らすには不向きなつくりだ。今は空気清浄機を動かし、人の住める環境のために懸命に働いている。 三島翔は先ほどまで一心不乱に祈っていたが、飽きたのでそこらへんの本を漁っていた。母セレクトによる本は、彼的には楽しくないものばかりだ。ため息をつきながら、母が人生のバイブルといだく『孫子』を手に取った。
 大学院一年になっても、彼は小説をはじめとする本に、とんと興味がもてないタイプであった。書籍代という書籍代は大概、バカみたいに高い研究書か資料のために使っている。写真は必ずカラー、紙は上質紙という研究書は恐ろしいほどに単価が高い。 院生と学部生の間で書籍代は大きく違うというが、彼の場合、単価の高い本を惜し気もなくに買うため、学部生のころから出費は高くついている。

 そもそも本に関して、三島翔にはコンプレックスがあるのだ。

 幼いころは、小説家の息子ということだけで文章はうまくて当たり前といった雰囲気があった。もちろん小中学生のころには人並みに課題図書を読み、読書感想文を書いたと思うが、どれも賞といった賞をとらなかった。感想を書くのはあまり好きではない。登場人物の心情を考えるなど、そんなの本人しかわからないではないか。

 それより、事実を理路整然と並べた論文の方が気を張らなくて好きだった。いかにうまく説明するのもそれなりに頭を使うが、なにがあろうと結論に変化はない。結局のところ、生理的にあわなかったんだと思うことにしている。
 小説の舞台設定を忘れないように読むより、くだらない心理テスト用のプログラムを組んでいる方が、彼にとって有意義、かつふさわしい余暇の過ごし方だった。
 だが、あたりを見回しても、彼がそう過ごすために必要なパソコンの姿はない。またひとつため息をつく。何かあったとき、ここで一番快適に過ごせるのは母で、一番辛いのは自分だ――彼はそう思いながら目をつむった。



 それから、たぶん数分と経ってはいなかっただろう。翔は目を覚まし、辺りを見回した。人の気配を感じたつもりだったが。
 どちらにせよ、頭の思考回路はやたらすっきりしていた。やることはないと諦めていたはずだが、頭の中でプログラミングを――恐ろしく簡単なものになるだろうが――やってみることにした。
 学部生の授業助手をした都合上、一部のものに関しては何もかも覚えてしまっている。悲しいかな、学部生の頃はまともに点数をとれず、苦労したのだが。まず、プログラミングの言語を決めなければ、と思っていた――時だった。
 扉がゆっくりと動き始めた。横開きに開くドアから一番最初に目に入った腕は、白く細い。母のものではないと感じながら、早い迎えだなと笑んだものの、出てきた顔は想像と違っていた。母でも使用人でもない顔だ。

 男限定大学に入ったつもりはなかったが、大学に入ってからというもの、女と関わることがめっきり減ってしまった。理工学部の宿命と学友はいったか。院にはいってからは、情況は軒並み悪化した。
 数人彼女はいたが、最長で二ヶ月のつきあいしかなかった。大失恋のあとは彼女は一人としていない。イナイ歴は半年近く。開ききった扉の向こうに居る、目の前の少女はそんな翔の目から見て、彼女はそこらの芸能人より上の顔をもっていた。年は高校生ぐらいだろう。華やかではないが、清潔感のある凛とした雰囲気を醸し出している。
「あなたが、カケル?」
「そう、だけど」
 少女は笑み、部屋の中に入った。翔は母親の姿のないことに気づき、少女を見つめた。
 どうやって扉を開けたのだろう?
「祥子さん――あなたのお母さんと、あなたをいただく約束をしたの」
「……は?」
「うん、求めていた通りの男ね。平凡実直、中庸を愛する一般庶民」

 言われた言葉には言い返せない響きがある。顔がそこそこ、頭そこそこ。真ん中よりちょっと高いか程度の、至って平凡な人間であることは自分でよくわかっているのである。彼女はうれしそうにころころと笑い、翔に近づいてその手をとった。
「結婚しましょう?」
 翔は寝起きのすっきりとした頭に、黒いもやめいたものがかかるのを感じた。
「はぁ?」

 神様、――何があったんでしょうか、俺の身に。

* 前編へ *


この記事にコメントする

必須

(blog上では公開されません。空欄可)

 (コメントの編集・削除に必要になります。半角英数4~16文字、空欄可)


この記事の情報