『億ドルの彼女』 前編

前編

 あぁ神様。懺悔します。
 俺……じゃない私は、今まで女手一人で育ててくれた母に恩を返す気なく、のうのうと大学に行き、就職することなく大学院に進学しました。半年が過ぎましたが、就職する気はいまだにありません。よって就職活動も、……情報サイトに一件も登録していないし、大学の就職課に出向したこともありません。
 私立の中高一貫校に通い、大学だって院だって私立。母が何も言わないのをいいことに、二十三になっても月二万のお小遣いをせびっています。もちろんバイト代の交通費込み月八万もあわせて、毎月の収入はそれなりですが、国民年金は学生控除で払っていません。控除のなくなった後も、なくなるだろう制度に金を払おうだなんて一ミリも思ってもいません。バイト代は年間百三万以内にして、所得税を払う気なんてありません。
 ――でも悔い、改めたいとおもいます。
 それなりの顔に生んでくれた母に感謝しながら、この顔で女の子をだましたことは、……何度か。でも半年ほど前、ベタぼれだった彼女に付き合ってほんのの数週間で「飽きれたバカだった」と言ってふられました。これで今までの罪は全部チャラにしてください。今のわが身は潔白です。
 不肖、私三島翔は事なかれ主義小市民でありますため、一生を平和に暮らすことが望みでございます。
 ――こんなに祈ることは人生初にして最後です、神様。……きっと。
 だからここから……数分前にいきなり「今日の晩飯を食べたくば出るな」と母に脅され、叩き込まれたこの部屋から、出してください、出させてください!! そろそろ言い尽くしがたいヒマさに気がふれそうです!!

 今日の晩飯はもちろん食べたいですが!



 東京都心を一周する線路の内側の某所に、三島祥子――三島翔の母――がその父親から譲り受けた、三代続く邸宅がある。あたりを見渡せば、高級住宅地として名高い所以を思わせる家が建ち並ぶ。しかし、風格威厳の面でこの三島邸に勝る屋敷をあたりに見つけることはできない。
 都心の宅地事情は無視した広大な敷地もさることながら、塀の間にそびえる門から本宅までの道のりに整えられた庭は、石苔や池、草木がおりなす日本庭園。夏の今は、生き生きとした緑をはせ、遣り水が涼しさを演出する。池の鯉は暑さなど知らないかのように動き回り、心を和ませる。維持費はかかるものの、ベストセラーを三年連続で出版した家主が己の収入を考えれば、むこう十年は維持できると豪語している。
 戦火で少なくない部分を焼失したものの、戦後復興で元の姿を取り戻し、いっそうの情緒を加味された邸宅は、緑多い百坪をゆうに超える土地に、平屋建ての本宅とあまり使われていない離れ・中身総額ン億とも言われる蔵が建つ。
 そんな雰囲気に似つかわしい黒塗りのベンツが、三島邸の前に止まる。晴れ晴れとした空の色のワンピースに、白のカーディガンを肩にかけた少女が、その後部座席から出てきた。短めの丈からはししゃものような足がのぞき、肌は透き通った色をしている。
 運転席からでてきた男は、なくなってしまった仕事に肩を落とした。専属運転手となった頃からの彼のささやかな夢は、お嬢様の降りるときに自分がドアを開け、その手を引くことなのだが、その仕事を完遂できたことはいまだかつてない。
 古い洋画の見すぎだと彼の友人は言って笑うが、彼にとって数少ない、胸を張っていえる夢であった。それほどに、この主人は魅力的で美しい。運転手はあたりを見回し、主人に頭を下げた。

「和中様、路上に駐車はできませんので、お帰りの……」
「三十分で終わるわ」
「かしこまりました」
 国道に入っていく自分の乗ってきた車を見つめ終えると、少女はインターホンに手を伸ばした。
「はい」
 使用人らしき女の声だった。思わぬ声に少女は驚いたが、すぐに胸をしゃんと伸ばし、名乗った。数秒と待たずに、聞きなれた声が、少女の耳に届く。ほっと胸をなで下ろすと、間もなく、その門が開いた。
 まだ若いだろう使用人の案内で、庭を横断していく。道の向こうの本宅ではなにやらあわただしい叫び声が聞こえる。少女は誰も気づかない笑みを浮かべた。もちろん、こうなることを含めて三十分といったのだから、こうでなければおもしろくない。
 歓迎されていないかもしれない家に行くスリル。あったことのない人間にあいに行くのに、少女の胸ははちきれんばかりであった。

* 後編へ *


この記事にコメントする

必須

(blog上では公開されません。空欄可)

 (コメントの編集・削除に必要になります。半角英数4~16文字、空欄可)


この記事の情報