『一生忘れないといった僕に、彼女が言った』

 中学三年の夏休み。さらに厳密に言えば、八月十六日。父方のいとこであり、ご近所さんであり、幼馴染であり、付き合って三ヶ月になる彼女――柳瀬直子が倒れた。
 駅前の、彼女のお気に入りのアクセサリー屋さんの前で倒れた。すぐに救急車が呼ばれ、母方のいとこであり、ご近所さんであり、幼馴染であり、彼氏である、現場に居合わせた僕も、一緒に救急車に乗った。
 その日は彼女の誕生日の前日だった。当日は家族と一緒に過ごすという彼女の話で、今日が僕にとって直子の誕生日だった。なんでも家族に付き合っていることを言っていないらしく、言うのも恥ずかしいらしい。僕も同じようなものなので、たしかにそれ以上は言えず。
 付き合ってはじめての、イベントらしいイベント。覚えてはいたものの、喜ぶようなプレゼントなんて思い浮かばなくって、デートにかこつけて彼女が「いいな」と言ったものを買おうと思っていた、密かに。決して彼女は「欲しい」とは言わないだろうし、三千円と言う限られた予算のこともあったから、大見栄きって言えなかったけれど。
 倒れる直前、見ていたウィンドウには、一万二千円の時計と、二千三百円のネックレスが飾ってあった。どちらを「いいなあ」というのか、僕は胸を、はらはら、ワクワク、どきどきさせながら待っていた。
 真剣に悩んでいる様子が微笑ましくて、けれどもずっと見つめていたらなんだか悪い気がして、視線をそらしていた。結果、僕を避けるように倒れた彼女に、僕は一番最初に気づけなかった。
 一番最初に気づいたのはお店の店員さんで、僕は動転しながら、てきぱきと措置をしていくその姿に嫉妬した。男の人が僕に無許可で、何も言わずに、彼女に触るからだ。すぐにお店の中にいた別の店員さん――こっちは、女の人だった――に向かって、ひゃくじゅうきゅうばん! と大声で叫んだ。
 倒れた彼女の隣で、呆然と立っている僕を見つけると、しゃがんでいた姿勢から立ち上がって、思いっきり平手で頬をたたいた。

「君がしっかりしないでどうするんだ!」

 周りには人だかりができていて、それを縫うようにしてまた男の人が現れた。あとで聞いたところによると、その日は非番だった、救急隊員の人。その人が耳を寄せ、心音を確認する。頬を口元に近づけて、呼吸を確認する。保健体育の授業で習った安全体位にして寝かせ、店員さんと話をしたあと、僕のほうへと振り向いた。

「幼馴染で、彼氏なんだって? 彼女には、既往症とかはあるかい?」
「きおう……?」

 わからない、聞いたことが無いと顔に浮かべながら、とりあえず単語を口に浮かべた。首をかしげると、患っている病気のことだと言う。またしても、わずらうってなんだ? とおもったけれど、「病気」をキーワードに、記憶を探った。
 特に記憶に無いです、と応えると、首をかしげる大人二人。そうしているうちに救急車が到着し、僕と彼女は一緒に病院へと運ばれた。

 病院に到着するとすぐに、保護者に連絡するようにといわれた。僕からの電話を、伯父さんと伯母さんは驚いていたけれど、病院の場所を言うと二十分後には到着するといって、電話を切った。

 二十分後に到着したおじさんとおばさんに、突然倒れたこと、ほんとうに、突然、倒れてしまったことを継げた。苦しそうに息をしている姿なんてもう思い出せず、ただ、救急車の中で握っていた手が、だんだん冷たくなっていったことは鮮明だった。
 とりあえずですが、措置は終わりましたとお医者さんが登場した。今夜が峠ですと無残に告げられた言葉に、おばさんはその場に座り込んでしまった。
 頭に自信は無い、僕だってわかった。――今夜が峠と言うことは、もしかしたら今夜、彼女がいなくなってしまうことなんだと。

「君は帰ったほうがいい。お義姉さんが心配する」

 おじさんにそういわれたけれど、僕は家に帰れる自信がなかった。一人で部屋にいる自信がなかった。両親には電話しますから、居させてくださいと言って、無理やりながら、その場に残った。
 さっき無残な宣告をしたばかりのお医者さんが、おじさんとおばさんに「今の状態を説明いたします」といって、面談室という部屋に入っていった。おじさんにいわれ、僕は彼女のベッドの脇に、丸イスを置いて座った。
 時間の過ぎていく感覚がひどく曖昧で、時折僕は寝入っていたらしい。看護婦さんにそのたびに起こされて、くすくすと笑われた。おじさんもおばさんも遅いなぁと思った頃、彼女の意識が戻った。

「……?」

 二重の大きな瞳は全開されない。半分ぐらい黒目が除いて、けれどそれでも、僕はとても安心した。明日は誕生日なのに、とんだ災難だったね、と手を握りながら彼女に話しかけた。
 口元を緩めた表情で、なんとか「うん」って言ったんだろうな。口を開くのが億劫といった風で、呼吸器も邪魔をする。
 おじさんもおばさんも、そろそろ来ると思うんだけど。なかなか来ないんだ。いま、お医者さんが説明しているんだけど、長くてこっちがびっくり。おどけた調子で言うと、また彼女が笑う。かわらないねと、途切れ途切れに言う。

「わたし、しんじゃうきがする」

 途切れ途切れに言われた文字をつなぎ合わせて、僕は頭を殴られたような衝撃をうけた。そんなはず無いよ、大丈夫だよと繰り返す僕に、彼女は首をふった。

「わかるんだ。つきあおうっていってくれたひ、うれしくて、でも、こわかった。からだがもうながくないって、けいほうがなってたんだあ」


 警報って、なんだ。そんなのがなってたならはやく病院に来ればよかったんだ。

「だって、にゅういんしたら、したいこと、できなくなっちゃう。でーとだってしたいし、きすだってしたいし、ずーっとずっと、いっしょにいたかった」

 おじさんとおばさんが部屋に来て、泣きはらしたような眼だけが視界を掠めた。両親に電話したら、車で来ると言っていたから、帰りなさいと強い声で言われる。さすがにその言葉に逆らえず、くるまで傍に居させてくださいと、彼女の手を握りながら言った。
 ほどなくして、気を利かせない母さんが到着する。また明日、という僕に、彼女は途切れ途切れに言う。

「あした、あえるのかな。わたしはまだ、いるのかな」

 その言葉に、その場にいた全員が半ば叫び声で否定する。僕だって参加した。大丈夫、大丈夫と繰り返して、繰り返しながら、そんな言葉がいったいどんな意味があるんだと思った。


 いちばん、ここで意味がある言葉ってなんだ。――そうか。

「一生忘れない。付き合おうって言った日に、恥ずかしいけど手をつないだこと。キスをしたこと。親に嘘ついて、デートしたこと。なのに、店員さんにはばれちゃって、恥ずかしかったこと――どれも一生、忘れない」

 彼女は満足げに微笑んで、言った。

 ――僕にとって、最後の言葉を。





 翌日早朝、誕生日に、彼女は息を引き取った。享年十六歳。十五歳の誕生日に亡くなったのに、どうして十六歳なのだろうかと両親に尋ねる。享年は数え年だと言われても、今度は数え年がわからない。とにかく、「そういうものだ」と思うことにした。
 両親からは、彼女と付き合っていた三ヶ月を事細かに追究されるはめになった。何も言わないなんて、という文句に終始したが、訃報を受けて、両親はただひたすら涙した。若いのに、こんなのでも、彼氏が片時でもいて、よかったのかしらと言う。
 彼女の両親とは、納骨後に話した。付き合い始めた日から、倒れるときまで。彼女のことを僕は大好きだったし、彼女もその気持ちでいたから、付き合っていたんだと思う。携帯を出されて、後ろめたさ半分のなか見ると、僕からのメールは全部、僕専用フォルダにはいっていた。フォルダ自体がロックされていて、中身を見ることはできない。
 送信履歴、見せてもらえないかしら? というので、僕の携帯の送信履歴を見せた。彼女とのやり取りが、鮮明によみがえる。家族には何も言ってないから、誕生日に出かけるなんて、バレバレなことしたくないって言ったメールとか。いや、わかるけどってふてくされたメールとか。
 付き合って初めての日に、うれしくて眠れないから、電話していい? と聞いてきたメールとか。ちなみにそのとき僕は熟睡してしまって、出られなかったのだけど。
 そんな一日一日を、ささいなことばかり、話した。

 彼女の死因は、がんだったそうだ。倒れたときにはもう手の施しようが無いほど進行していた。小児がんは進行が早く、自覚症状が出たときにはもう手遅れの場合が多いという。彼女のあのときの言葉を僕はいえなくて、そのまま胸に鍵をかけた。
 多分、新しい彼女なんて早々にできないだろう。恐ろしいほど胸を占拠されて、でも彼女はここにはいない。なんてひどい女だと思っても、今の僕には、彼女以上にいとしい人はいない。

 二千三百円のネックレスは今、彼女の仏壇に飾ってある。来年は高校生になって、アルバイトだってできる。来年の八月十六日にはあの一万二千円の時計を買おう。店員さんにはもう言ってあって、長い長い取り置きを依頼してある。
 どきどきした。はらはらした。わくわくした。
 気持ちに全部、偽りは無い。言葉にだって、偽りは無い。

 一生忘れないと言った僕に、彼女は言った。

 忘れないでね、と。


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